□漆拾参話「入」
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高く低く、湖面の様に透明で美しい竜笛の音色が清い空気を切なく震わせる。その音色に合わせて女が月明かりの中で舞う。二人の息はとても合っていた。音色が舞いに深みを与え、舞いが音色に流れを作る。お互い作用し合って、まるで天女の舞いの様な素晴らしいものになっている。

美しい竜笛の音色に耳を傾けつつも食い入るように、その一瞬一瞬を見逃しまいと瞬きをしない少女が舞いを見ていた。



「夕利、お前に行って貰いたい所がある」



父親の私室に呼ばれて正座をすると、そう言われた。


「そこで自分の身を守る術を学んで来て欲しいんだ」


『はい、父上』


「…嫌がらないのか?」



何の迷いもなく返事をする愛娘に動三は聞いた。父親の言葉に、夕利はそっと目を閉じた。


『父上母上がそう望むのならばうちは嫌がりません。それに、それは父上母上の為、うちの将来の為なのでしょう?』


「……ああ。お前や静は必ず私の手で守る。だがいざという時、自分の身を自分で守らなければならない」



そのいざという時が来ないのを願う様に目を伏せた。先を見越して決めた事だ。妻の静に話した時は驚かれたが、鐘三つ分程の間で理由を理解し、そうしましょうと小さく頷いた。
…本当に、小さく。


『なら尚更の事。参りましょう、そこに。どこに行くのですか?』


瞼を押し上げた夕利の漆黒の目はどこまでも澄み切っていて、その中に半端ではない覚悟を秘めていた。
…もしかしたら、薄々気付いているのかもしれない。名家の姫である夕利が、幼い内から武を身に付けなければならない理由を。


「江戸には御庭番という機関がある。そこに入って貰う」


『…父上、御庭番とはもしや、隠密…ですか?』


「ああ、期間はお前が十三歳の内だ」


『……八年間もずっと?』


「……帰りたいと、お前がそう望むのなら短くする」


『………』



“隠密”。光には出ず、闇に影を落として生きる者。表には出ないと決めている瀧波家の夕利が武を積むとなれば裏の役だろう。

期間を短くする事について、夕利は少し迷った。現在五歳である夕利は両親が嫌いという訳ではなかった。寧ろ大好きだ。竜笛が心を震わす程上手くて優しくて頼もしい父と、箏と舞いが父の笛と同等に上手くて美しい母。どこだろうと誰の前であろうと、夕利が胸を張って二人の子供だとはっきり言える程の自慢の両親だ。


勿論、この家も大好きだ。多少手入れはしているけれど、後は好きに生えさせている、色とりどりの花や草木が生えている庭。叔父がやたらと整えたがるが、夕利は好きに生えさせるこっちの方が好きだ。

目一杯息を吸えばすんなり入り込む山の清い空気。夏に池一杯に咲き乱れる蓮。夜空に瞬く満天の星。嫌いな所が一つも見付からない、そんな素敵なこの家に居たくないなんて夕利は思わなかった。


「…今ここで決めなくて良い。向こうに着く前に決めといてくれ」


『…すみません、父上』


「謝らなくて良いよ。迷うのは当然だ」


『出発は…いつですか?』


「三日後の早朝に私と静とお前の三人で発つ。向こうで必要と思う物だけを持って行きなさい」


『…分かりました』



指をきちんと揃え、深々と頭を下げる夕利に心の中ですまないと謝った。決して口に出しはしない。言えば自分の意思が揺らぎそうだし何より、夕利に色々言われてしまうから。
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