弐
□弐拾玖話「流」
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五月十四日を迎えた朝、仕事に慣れて来た夕利はテキパキと書類をこなしていた。その様子に斎藤は、やはりこいつは出来るなと、心の中で褒める。二人が暫く書類を相手にしていると扉を叩く音が聞こえた。
「入るぞ」
(川路さんか)
上司が入るので斎藤が許可する間もなく川路が入って来た。
『おはようございます』
「ああおはよう。瀧波に制服とこれを渡しに来た」
川路は夕利に制服と紙切れ一枚を渡した。見るとそれはある家の地図と住所が書かれていた。
「手配は済んであるから今日からそこに住める。遅くなってすまなかったな」
『いえ、わざわざ足を運んで下さってありがとうございます』
「たまたまここの前を通ったからな、気にするな」
そう言うと川路は部屋を出た。夕利と川路が話しているのを横目で見ていた斎藤は片眉を吊り上げながら訊いた。
「…なんだその紙切れは」
『うちの借家の地図ですよ。あー、これでやっとここで寝起きしなくて済みましたよ』
睡眠を警視庁の仮眠室で取っていた夕利は背伸びをしながら嬉しそうに言う。一方の斎藤は固まっていた。
「…お前、宿に泊まってたんじゃなかったのか?」
『あれ、言ってませんでしたっけ?東京の宿は高いので一泊しかしてないですよ』
「勝手に言った事にしてんじゃねェよ阿呆。…それだったら俺のトコに泊めてやってたぞ。いや寧ろ今日から借家じゃなくて俺の所に住め」
真顔でとんでもない事を言って退けた斎藤に夕利は思わず咳き込んだ。
『ゴホッ。え、いや、なんでそうなるんですか!?』
「お前は俺直属の部下だろ?お前に何か話して置きたい事があった時、借家が離れていたら直ぐに伝えられんだろ?」
『それは…そう、ですけど斎藤さんに悪いですし』
「俺は構わん。(寧ろ好都合だ)」
『(そんなのうちの心臓が持たないから)勘弁して下さい』
「あ?俺の何が不満だ?」
『…人を苛めるところ?』
恐る恐る答える夕利はまるで小動物みたいだ。更に苛めがアッチ方面のものに聞こえたので斎藤はムラッと来た。それを誤魔化す為にニヤリと笑って見せると夕利は顔を赤くした。
「ホウ…そんなに俺に苛めて欲しいのかお前は?」
『ち、違います!』
「そうならそうと言えよ阿呆が」
『だから、違いますって!!』
半分本気で半分冗談な事に本気に返して来る夕利の反応は面白いが、やり過ぎるとまともに口を聞いてくれなくなる。十一年ぶりに再会して漸く一週間経ったとしてもそれは避けたかった。
「苛める云々は冗談に決まってるだろうがド阿呆。…強制じゃあないが俺のトコに住む事は考えて置け」
『…だったら冗談に聞こえるように言って下さいよ…』
夕利は顔を真っ赤にさせて制服を胸に抱き締めていた。女物の着物を警視庁で着ていれば周りから変な目で見られるのと動き難いから、を理由に男物を着ていた夕利。夕利の事だから制服が似合うと思って声を掛ける。
「せっかく川路の旦那に貰ったんだ。着替えて来い」
『じゃあ、お言葉に甘えて…』
借家の地図を机に置くと夕利は部屋を出て、川路に宛がわれた斎藤の隣に部屋にある私室に入った。隣の部屋に夕利が入って扉に鍵をかけた物音を聞くと斎藤は立ち上がって机に近付き、夕利の借家の位置を確認した。
少しして隣の部屋の扉が開いたような音が聞こえ、会話が聞こえた。耳を澄ませると相手は川路のようだ。会話が終わったと同時に扉が開き、今にも鼻歌を歌いそうな夕利が部屋に入って来た。
「…ホウ」
『どうです?似合ってます?』
制服が醸し出すキリッとした雰囲気が、凛とした夕利の魅力をより引き立ている。が、似合っているのに素直に褒めないのが斎藤である。
「馬子にも衣装だな」
『……本っ当に失礼ですね。さっきそこで会った川路さんは良く似合ってるって褒めてくれたのに』
「冗談だ。お前は弄りがい、苛めがいがあるんだ。良く似合ってるぜ」
『そんなの嬉しくないですし、もう遅いです!』
「そう怒るな。飯、おごってやるから」
『………分かりました、許します』
夕利はぷいっとそっぽを向いて、これ以上顔が赤くなっている所を斎藤に見られないようにした。
斎藤は己を偽っている時に世辞を言ったりするが、素でいる時に言う世辞は、斎藤が本当にそう思っているものだ。少し前に川路に同じ事を言われたのに、斎藤に“良く似合っている”と言われた方が何百倍も嬉しかった。
夕利の仕草を可愛らしいと思った斎藤は夕利に近付くと優しく頭を撫でた。
「少し早いが、飯を食いに行くぞ」
『…はい』
赤い顔で俯く夕利を見た斎藤は、名残惜しそうに頭を撫でるのを止めた。