□漆拾参話「入」
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『あの…父上?』


「ん?なんだい夕利」



顔を上げて言いづらそうに目を泳がせている夕利を安心させる様に、動三はにっこりと笑みを向けた。それで夕利はちょっとホッとしたのか、表情を和らげて言葉を紡ぐ。


『前日の夜に父上の笛と母上の舞いとそれから…』


「箏、だね。勿論良いよ。断る理由がどこにあるんだい?」


『…ない、と思います…』


「だろ?夕利、おいで」



娘の足が痺れて動けなくなる前に動三は呼ぶ。大好きな父親に呼ばれ、夕利は本当に嬉しそうに笑いながらとてとてと近付き、脇にちょこんと座る。愛おしむ様に目を細めた彼は腕を伸ばしてゆっくり夕利を引き寄せた。


『…父上、夕利は頑張ります。自分だけでなく父上も母上も守れるように強くなります』


「それは頼もしいな」



壊れ物のように抱き寄せれば、ぎゅーっと、彼にしたら弱い力で返してくれる夕利がこの上なく可愛い。頭を撫でてあげればふにゃりと子供らしく笑う。


(……本当に、すまない)


元から体が弱かったが夕利を産んでから静は、もう子供を産めなくなった。それでは跡継ぎがいないという事で、弟の重敦は自分の妻が男の子を産むようにと影で色々動いている。
…男子が産まれたその時、歯車は大きく動き出す。上手く行けば家族三人は自由に生きれて、下手に行けば三人共死んでしまう道が開かれる。

せめてこの子だけはと、願うように動三は夕利を強く抱き締めた。















笛も好きだが箏も好きだ。柱を動かしただけで音が高くなったり低くなったりするし、後合わせ爪や押し手、突き、すくい、トレモロで音に変化が生まれる。


(…父上の笛と母上の箏、どっちの方が好きかと訊かれたら、答えられないや)


箏を弾く夕利の母、静の近くに燭台はなかった。灯籠には火が入っていたし、月と星明かりもある。彼女の腕なら、手元を見る必要もないのだ。

夕利が脇で聞いてる中、彼女は独奏の曲を弾く。弾いていく内に音が少しでも狂えば、自然な感じで弾きながら柱を動かす。耳が、音を覚えているのだ。


「……夕利」


曲の途中で手を止めた。ふつりと曲の欠片が夜陰の中に消えていく。


『なんですか?母上』


夕利は、まるで美しい母親が何を言おうとしているのかを知っているような顔でゆっくりと微笑んだ。母親はそれを見て、出そうだった言葉を飲み込み、指に嵌めていた爪を外した。邪魔にならない所にそれを置き、体を回転して脇にいる夕利を抱き締めた。

香を服に染み付かせなくても香る母の匂いに、夕利はそっと目を閉じた。



『大丈夫です』



…その一言で、静の涙腺が緩みそうになった。


『父上も母上もこの家も、みんな大好きです。だから安心して下さい』


ね、と言って子供の夕利には広い背に手を回す。
…母の目頭から、涙が一筋零れた様な気がした。
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