藍〜story of possible〜
□さよなら、大好きな人
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最後の日はあっと云う間に過ぎてしまった。
シンジは荷物を片付け、最後の書類を渡し、いよいよ最後の別れをする為に数年と短い間だが、欠けがえの無い思い出が詰め込まれた部屋へ戻った。
六畳の縦長い部屋には、今は殆ど何も無いとしか言えない程度の家具しかなかった。
淡いブルーのカーテンは外され、デートをする度に増えていったぬいぐるみやインテリアは今頃真赤に熱された焼却炉の中で灰へと変わっているだろう。
初めて二人が入居した時の想いは何処に消えてしまったのだろうとシンジは思う。
あの頃は毎日が幸せに包まれていた。
太陽がやっと頂上に昇る頃に目覚めておはようのキスをし、下着も身に着けずにキッチンへ向かい簡単な料理を作る。
忙しなく首を振る扇風機の前に折り畳みのテーブルを開いて食事を進め、食べ終われば乱れた布団の中へ舞い戻り獣の様に互いを求め合う。
その生活に進展は無かった。
しかし、そこには変わらない幸せがあった。
そんな怠慢的な生活な生活を数年も過ごせたのだから、二人は幸せだったのかもしれないと自嘲の笑みを浮かべる。
いよいよ最後だと云う思いはマナにも見られ、彼女は部屋に戻ってきてから氷の様な冷たい表情をしていた。
氷の様な表情・・・この数年間で一度も見る事の無かった表情。
その瞳から雫が音も泣く彼女の頬を伝っていた。
ハンカチを持っていなかったので、マナは袖で涙を拭く。
マナの瞳は傷付き、悲しみに満ちていた。
「私は、貴方と離れたくない」
マナは泣き声を出した。
「これが終わってしまうなんて嫌。また、ここに戻って来たい、シンジ君」
「分かるよ、マナ」
自然にマナへ伸びそうになった腕を引き戻す。
自分達が何を言った所で、この事実は変更出来ない状況になっている。
ここでマナを抱きしめてしまえば、自分達は哀しさで壊れてしまう。
「でも、そう感じるのは今だけだよ。もう少しすれば、その気持ちも消えてしまう」
自分が発した言葉に心が悲鳴を上げている。
「行きたくない、シンジ君。シンジ君は悲しくないの?」
シンジは答えずにマナの前髪をそっと撫でた。
「マナに手紙を書くって言ったのを覚えているだろ。そうすればお互いがどうしているか分かるし、本当に分かれた訳ではない。分かるだろ」
「いいえ、分からない。私は此処に居たい」
何て聞き分けが悪いのだろうとマナは思う。
別れる理由も言わずに別れ話を告げたシンジに何か事情があるのは理解出来る。
だからこそ、マナの為に手紙を書くとシンジは約束してくれたのだ。
しかし、二人で過ごした数年間の思い出がマナの自制心を消していく。
「手紙なんていらない、私は貴方と一緒に居たいの」
「そんな話は聞きたくない。これは決まった事なんだ」
「此処から離れない、絶対に。私はシンジ君と一緒に居る」
「それを認める事は出来ない。でも、そんな事をしても何も変わらないんだ。そんな事をしても過去の幸せは戻ってこない」
マナは涙を堪える事もせずに、床を見つめて涙の水溜りを作っている。
「僕達は成長しなくちゃいけないんだ。二人で傷を舐め合ってばかりじゃいけないんだ」
二人が供に暮らすようになったのも、心に負った傷を舐め合う為だ。
シンジは、悲鳴を上げる心の安らぎの為。
マナは、値の繋がりは無いと云え、家族と呼んでも不自然は無い二人の少年を失った為。
過ごした時間を否定するつもりは無い。
しかし、マナの為にも自分は否定しなくてはならないのだ。
マナは首を横に振った。
「成長なんていらない」
丁度その時、シンジのポケットから電子音が流れ出す。
別れが近づいてきていると告げていた。
シンジはベットに近づくと投げ出されていた鍵を拾い上げる。
空色のキーケースに携えられている一つの鍵はこの部屋に入る事の出来る唯一つのもの
その鍵を外しキーケースをマナへ渡す。
ここにマナの居場所は無いのだと・・・自分の意思に変わりは無い事を安易に彼女へ告げる行為だった。
マナは唯涙を流す事しか出来なかった。
+++++
アパートの前に横付けされた黒光りを放つ車に乗らなければならなかった。
運転席と助手席には過去に同居していた二人の女性達の姿が見える。
その瞳に秘められた悲しみと悔しさの視線が向けられている事にシンジは簡単に気付けた。
別れを告げた理由が二人に理解されていた事に涙が溢れそうになってしまう。
シンジにとってもマナとの別れは辛い。
半身とも云える彼女と別れたくないと心は叫びを上げている。
しかし、その叫びを上げる事は出来ない。
マナの幸せを考えるので有るならば。
助手席から出てきたアスカが後部座席のドアを開け、ふらふらと確かではない足取りのマナを支え後部座席へ導くと彼女が座ったのを確認し助手席へと戻った。
その助手席へ戻る途中のすれ違い様にアスカの手を握り、その小さく震える手の中へ自分の想いを握り締めさせる。
「・・・もし、マナが幸せになっていたら渡して欲しい」
「えっ」
「僕からの一生一度のお願い」
何かを掴まされたアスカは戸惑いを隠せなかった、シンジの言葉を聞くとその青い瞳は揺られる波の様に潤んでいく。
「わ、わかったわ。ちゃんと渡すわ」
そう言うと早足で助手席へ戻っていくアスカ。
タイミングを見計らったようにゆっくりと機械音を立て下がっていく窓。
その開いた先に居るマナは不思議な笑みを浮かべていた。
「一つだけ聞いても良い?」
「いいよ」
「私の事が嫌い?」
内心安堵の息を吐くが、それ以上にマナの言葉に思考が強張ってしまう。
何て残酷な言葉なのだろう。
自分の答え等最初から決まっている。
だからこそ、シンジは言った。
「嫌いだ」
シンジの言葉にマナの口元から笑みは消えていた。
「私はシンジが好き。貴方を振り向かすにはどうすれば良い?」
強がって平常心を保つ言葉を放つがマナの瞳からは止めどなく涙が流れ落ちていく。
「さぁ?僕の事を忘れるのが冴えたやり方だと思うよ」
「無理ね。私は・・・シンジが好き・・・だもの」
「そうか。なら、諦めて欲しい」
本当はこのまま一緒に居たい。
涙を指で拭き取り、その震える唇を奪ってしまいたい。
しかし、想いとは逆の言葉が出てしまう。
「い・・・や。私は・・・」
「ミサトさん・・・出してください」
マナの言葉を遮る様に言ったシンジに応えたのか、すぐにエンジンがかかり、排気自動車特有の排気音が辺りを包む。
何時の間にか俯いていたシンジの瞳にも涙が浮かび始めていた。
ゆっくりと回りながら進んでいくタイヤが視線の隅に入ってしまうと浮かび始めた涙が勢いよく流れ出していく。
「お願い!もう少し話をさせて!!」
マナは切羽詰った声もシンジには耐え難い悲しみが涙となって襲い掛かる。
最後の姿を視界に入れようと涙を拭き取り視線を上げた。
車が通りに出て、その姿が見えなくなる時、シンジは手を上げて叫んだ。
「大好きだよ」
ぎゅっと強張った喉から搾り出されたその言葉は殆ど声にならなかった。
それから、シンジは踵を返しアパートへ戻るのであった。