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□やっぱり、かなわない
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この突拍子もなく並外れた行動力と不可解な言動には随分と慣れたつもりでいたけど、やっぱり自分はこの人の事を半分…いや、10分の1も解ってないのかもしれない。
一体どんな構造になっているのか、頭の蓋を開けてその思考回路を覗いてみたいくらいだ。
「――は…?」
「俺は出かけるから、少しばかりお前が、この国の皇帝の代わりを努めてくれ」
「………」
また一体何を言い出すんだ、この人は。
第一そんなものなろうとしてなれるもんなのか?
思考がついていけなくてうまく言葉を発する事も出来ず、ただ呆然とその場に固まった俺の肩に両手が乗せられる。そのままさっきまで陛下が腰かけていたデスクへと促された。ほぼ無理矢理押し付ける様に座らされたそこは、流石に皇帝が座る為に用意された椅子というべきか。硬すぎでもなく柔らかすぎでもない、程好い弾力が身体を受け止めてくれた。
「お前はただここへ座っているだけでいい」
爽やかに笑みを浮かべた陛下がそう言うものだから思わず反射的にうなずいてしまった。それを見て満足したようにまた笑みを深めた陛下は、こめかみにそっと口付けてきた。かあっ、と顔中に熱が集まってくるのを感じる。何度されても――実際はそれ以上の事もしている筈なのに――やっぱり慣れない。
俺は赤くなった顔を見られたくなくて(すでにバレバレだと思うけど)、恥ずかしさから逃れようと床の一点を睨み付ける。そうしている内に陛下がその場からそっと離れていく気配がして、職務室のドアがガチャリと音を立てた。
「俺はちょっと野暮用で出かけてくるからな――後は任せたぞ」
その声に咄嗟に顔をあげて陛下が今まさに出ていこうとする扉の方を見る。一瞬目があった陛下は何か含んだ様な笑みを浮かべていて…、その表情に目を奪われていた俺は、返事をしようとして、その前にもう扉は閉まっていた。
……
………
…しまった!またやられた!!
また陛下の脱走を見逃してしまった。
陛下不在の職務室にジェイドでも来たらどうしよう…!
また嫌味交じりにねちねち説教されながら、陛下を監視してなかった罰として、一日中部屋に閉じ込められて書類の整理させられる!
そんな嫌な想像ばかりが沸いてきて頭を抱えたくなった。
どうしてあの時ちゃんと注意しなかったんだろう。陛下を引き留めるチャンスなんていくらでもあったのに、とか。そんな後悔ばかりがぐるぐると巡る。
「…はぁ」
自然と零れ落ちる溜め息。
こうなったら考えていても始まらない。
ジェイドに気付かれる前に、陛下に出来るだけ早く帰ってきてもらう事を祈るだけだ。
机の上には散乱した書類の山で埋まっていて、見た感じとても今日中に終わらせそうな量ではなかった。
(一体どれだけ溜めてるんだよ…陛下…こんなんで出かけていってほんとに大丈夫なのか…?)
座っているだけでいい。と陛下には言われていたけどただ座っているだけというのもそれはそれで退屈だ。
目の前には書類の束。まさか自分が皇帝の代わりに国を担う重要な書類に目を通しサインをする、なんて事はできる訳がないけど、せめて陛下が帰ってきた時に仕事がしやすい様に書類をまとめておくぐらいは俺にだってできる。
「――陛下…早く帰って来ないかな」
書類を整理する手を止めて、誰もいない部屋の中で一人呟く。
陛下が外出してからまだ数十分しか経ってないのに、主を失ったこの執務室はあまりにも広くて、自分はこの広すぎる城の中にたった一人取り残された様な気分になる。
「…ほんと…どこいったんだろ…」
自分一人しかいない部屋の中で疑問に答えてくれる声はある筈もなくて。
もう一度溜め息を吐いて、座り心地の良いクッションのような椅子に深く身体を沈みこませた。
ふわり、と。陛下が愛用している香水の匂いが漂ってきた。それはさっきまでここに陛下が座っていたという証だ。
まるで後ろから抱き締められているような感覚。
ふわりとやってくる心地好い眠気。その流れに逆らうこともせず、いつの間にか眠りの世界に落ちていった。
「――…ルーク?」
日もだいぶ傾いてきた頃、陛下が帰ってくる気配で意識が戻ってきた。だけど、まだ目を開ける程覚醒はしてなくて空気の流れで陛下の存在を追う。
相手の方を見ていなくても気配で最近ようやく判る様になってきた。自分が座っている椅子に陛下が近づいてくるのが窺える。
「なんだ、寝てるのか」
普段よりも声のトーンを落とし、少し残念そうに呟く陛下。
眉に皺を寄せて困った様に笑っている、そんな顔も見てみたいと思うけれど、目覚めたばかりの脳は思う様に身体に指令を送ってはくれない。
「……、…か…?」
名前を呼ぼうと口元を動かすが出てきたのは掠れた吐息だけだった。
「ん、…ただいま」
ギシ、と腰かけていた椅子が軋む音がして、続いて唇に柔らかい感触があった。
自分のそれよりも少しだけ冷たくてかさついた感覚。
次第に覚醒してくる意識に、段々と頬が熱を持ってくる。
「ん…っ、ふ…、…へ…いか…」
うっすらと開けた視界にあまりにも間近に迫った陛下の顔があり、先程まで感じでいた眠気は一瞬にしてどこかへ飛んでいった。
いい加減に呼吸が苦しくなってきて、程よく引き締まった胸板に手をついて押すと、ようやく唇が解放された。
「ちょ…ちょっ、と……へいか…!」
どこへ行っていたんだ、とか、仕事をほったらかしにして何をしていたのか、とか。聞きたい事は山ほどあったけど、たった今のキスのせいで息も胸の中も苦しくて言葉にならない。
「俺は今“陛下”じゃないぞ。今、皇帝は、お前だ」
彼曰く、現在“皇帝陛下”らしい自分を指差し『お前』呼ばわりする、本物の皇帝の遊び(なんなのかよく分からない)はまだ続いているらしい。
「どういう、つもり…なんですか…?」
思った以上に呼吸は整っていなかったらしい。途切れ途切れになってしまう言葉を必死に紡ぐ。
「…“ピオニー”」
「へ…?」
「ピオニー、って名前で呼んでくれたら教えてやってもいいぞ」
意地悪くにやにや笑いながら、顔を近付けてくる陛下。いや、今は陛下じゃなかったのか…。もう何が何なのか頭がこんがらがってきた。
本当に何がしたいんだ、この大人は?
「……ピ、オニー…っ?」
「ん、よく出来ました」
よしよし、とご褒美と言わんばかりに頭を撫でられた。
甘やかされるのは慣れていない。…いや、今まで散々甘やかされて育ってきたのかもしれない。だけど、屋敷の中でぬくぬくと与えられる“甘え”と今こうして与えられる“甘さ”は同じようで全く別物な気がした。
そのぬくもりに最近ようやく慣れてきて、心地好いと思えるようになったのは、与えてくれる目の前の人の眼差しが酷く優しいせいだ。
「好きです」
そう言えば目の前の青色が満足そうに細められた。
心の中に思い浮かんだ感情をちゃんと言葉にして伝えれば、この人は喜ぶのを知っているから。少しだけ恥ずかしいけど、素直になってみる。
すると陛下は何を思ったのか、俺の手を取り膝まずいてきた。そっとそのまま手の甲に口付けられる。ちょうど身分の高い人に忠誠を誓う儀式のようなそれ。
「な、な…何をしてるんですかっ…!顔を上げてくださいっ」
一国の皇帝陛下に、元とはいえ敵国のしかも公爵ごときの身分の自分に到底されるべき行為じゃない。
俺は赤くなるやら青くなるやらで、優しく包まれた陛下に今しがた口付けられた手の甲をまじまじと見つめた。
「……今の俺は“皇帝”としてではなく、一人の人間……男としてのつもりで、なんだが……」
「え…?」
柔らかく微笑まれ、掴んでいた手が離される。その先を見ると指先――左の薬指に輝くリングがあった。シンプルな装飾が施されたシルバーの……って、ええっ!?
「俺のそばにいて欲しい」
上目使いに顔を覗く、真剣な眼差しの陛下に俺はもうただ赤くなって頷くしかなかった。
end.