実在した海賊の物語

□フルリ
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 1521年。中部メキシコにあるアステカ王国を、スペインのコルテス率いる500人余りの軍勢が襲撃し、征服することに成功した。
 コルテスの軍勢は、アステカ王国の首都、テノチティトランを三ヶ月にわたって包囲し、インディオの虐殺を繰り返した。
 アステカの領土と財宝を手にしたコルテスは、母国スペインの王カルロス一世に、勝利を知らせる報告書とともに、多くの金銀の装身具を献上する。

 だが、これらの多くの財宝は、残念ながらスペインに届くことはなかった。

 3隻のキャラベル船に積み込まれた献上品は、スペインから遥か遠く離れたアゾレス諸島の近くで、フランス沿岸に本拠を置く海賊船(私掠船)6隻に出くわしてしまった。
 この私掠船の指揮官を《フルリ》という。
 彼の命令を受けた6隻の海賊船は、アステカの財宝を積んだスペイン船3隻を取り囲んで責め立ててきた。
 1隻のスペイン船はなんとか逃げ延びて無事だったが、残り2隻は捕らえられてしまう。

 この事件が、新大陸からの財宝を奪った初めての海賊行為だった。


☆☆☆


 当然、自分のところに届くはずの財宝を奪った海賊を、スペイン王カルロス一世は大いに憎んだ。フルリの船団が本拠を置くフランスに抗議をしたが、全く受け入れてもらえなかった。
 当時、フランスとスペインがイタリア制覇をかけた戦い、イタリア戦争(1521〜1559)を繰り広げていたからである。
 この戦争のさなかに行われたフルリの海賊行為を、フランスのフランソワ一世は、正当な戦争行為として扱った。


☆☆☆


 フルリはアステカの財宝を奪った後も、ヨーロッパ沿岸で海賊行為を繰り返した。
 だがとうとう、1527年、スペインの要港カディスの近くで、スペイン海軍に捕らえられてしまう。
 フルリの海賊行為を正当な戦争行為としてフランス王は扱っていたが、彼は捕虜として扱われなかった。
 当時の捕虜は、交戦国同士の交換によって本国に返されるのが普通であったが、フルリは“海賊”としてただちに処刑されたのである。


※フルリの略奪行為は、フランスから見れば正当な戦争行為で、スペインから見れば海賊行為であった。
 私掠船と呼ばれた初期の海賊は、このように曖昧な性質を持つものであった。

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