短編集

□透明な刃
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 昼下がり、たまたまそのバーへと入ったのは本当にただの偶然だった。
「いらっしゃい」
 静かなマスターの声が響く。入店を知らせるベルが軽い音を立てた。ようやく仕事の休みができ、明日は久々の休日である。意気揚々と店内へと進めば、ふと奥にいる男へと視線が奪われた。
 その男は、一番奥のカウンター席で静かにバーボンのストレートを飲んでいた。黒一色のキチッと上品なブランド物でまとめられた服装はゴツすぎず痩せすぎず、スラリとした体型を引き立てる。程よい顎髭と目深に被った帽子は、彼の表情を綺麗に隠してしまっていた。
 興味が湧いたのは、明日が休みだという高揚感のせいかもしれない。普段ならそんな事はしないが、その男の隣の椅子を引く。
「マスター、スコッチのロックをひとつ。あとおすすめのおつまみをくれ」
 かしこまりました、と返事をしたマスターに感謝を述べ、隣を横目でチラリと見やる。近くで見れば更に精巧な顔立ちだった。東洋っぽい雰囲気もありながら、どことなくミステリアスだ。
「坊主、そんなにジロジロ見てどうした?」
 静かなローバリトンが響いた。彼が話したのだと気がつくのに数秒かかり、目を見開く。声までダンディとはこれいかに。
「あのっ、その…かっこいいなと思いまして。どうしたらそうなれますか?」
「俺になりたいって事か?やめとけやめとけ、一銭の徳にもならねぇよ」
 戸惑いながらも答えれば、少し驚いたように顔をこちらへ向けると人懐っこい笑みを浮かべた。なんだ、カッコいい男になりたいのかお前さん。とこちらに体を向けてくれる。
「そうです、しがないサラリーマンじゃ無理かもしんないですけど…」
「んなこたねぇさ。お前さんが格好いいと思った奴をよく観察して真似すりゃいい」
「じゃあ、いっぱい貴方のことを見ます!」
「よせやい…俺なんか真似しても不幸しか運んでこねぇよ」
 彼は、ふっとニヒルな笑みを浮かべた。今も不幸なんですか?と尋ねれば、ふと言葉が詰まる。
「…いや……ようやくツキが回ってきたとこだな」
「じゃあ、きっと貴方の格好良さがそれを持ってきてくれたんすね!」
「ハッんなわけ…あーまぁな、もしかしたらそうかもしれねぇな」
 愉快そうにくくくっと笑う彼に、こちらまで嬉しくなった。それからも他愛もない話をいくつかして、少しずつ彼のことが分かってくる。
 例えば、煙草はペルメルが好きだとか、バーボンやスコッチはストレートで飲むんだとか。
「何か趣味はあるんですか?」
「趣味ね…ま、色々あるが、ダーツかな」
「わー、また大人の趣味って感じっすね!」
「ハッそうでもねぇさ。やろうと思えば誰でもできるぜ?」
 上手いんですか?と尋ねれば、意味深な笑みを浮かべた。
「狙った的は外さねぇよ」
「おぉ…!」
 凄いっすね!と笑みを浮かべれば、お前さん素直すぎるんじゃないか?と心配そうにそう言われた。だって凄く話しやすいんです、兄貴とかいたらこんな感じだったんですかね?とそう言ってひと口おつまみを頬張れば、こんな素直な弟を持つと苦労しそうだと苦笑された。
 気がつけば時間は3時間ほど経っていて、日は傾き始めていた。そろそろ行かねえと、と席を立とうとする彼の袖をぐいっと引っ張る。
「あ?」
「あの、今日話してくれたお礼に一杯奢らせて貰えませんか?」
「…いいのか?なら遠慮なく。マスター、スコッチをストレートで」
 彼がマスターにそう話しかければ、慣れた手つきで琥珀色の液体が出される。それを一気に呑むと、美味そうにふぅと息を吐いた。口元をグィッと拭い、グラスを置く。
「んじゃ、ご馳走さん」
「ありがとうございました!」
 ひら、と振り返らずに片手を上げてくれたその人に、俺は深々と頭を下げた。
 もう既につまみはなくなり、残る酒もほんの僅かだ。彼の真似をしてグィッと煽れば喉が燃えるように熱くなった。
「マスター、ご馳走様。お勘定お願いします」
 お金を払う。彼に奢った分で少し予算はオーバーしたものの、払えないほどの金額ではない。白髪まじりのオーナーはにっこりと優しい笑みを浮かべ、ありがとうございましたと頭を軽く下げた。
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