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□ただいま
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ただいま、という小さな声は、そのまま暗闇に消えるように吸い込まれていった。
履き慣れたスニーカーを脱ぎすてて、真っ暗な廊下を進んでいく。
( ああ。今日も疲れた、早く寝たい。 )
お風呂場に直行して素早く熱いシャワーを浴びる。冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターで喉の渇きを癒して。
部屋の電気を消す。リビングを後にして寝室のドアを開くと、豆電球の微かな光のもとで、彼女の存在を示すように、毛布がわずかに上下を繰り返しているのが見えた。
なんとなくスマホの待受画面を確認すると、もうとっくに日付は変わっていて、バックライトの眩しさにすぐ目をそらした。
今日みたいに( しょっちゅうだけど )遅くなる日は、基本的に彼女はもう眠っていて、明るい声の「おかえり」を聞くことは出来ない。
そこに微妙な淋しさを覚えながらも、彼女の用意してくれた食事とか、彼女が洗濯して畳んでくれている服とか。そういう些細なことに彼女の存在を端々に感じて、なんとなくくすぐったい。
部屋着をまとって完全オフモードになった俺。
毛布をそっと捲り、彼女が作ってくれているスペースに身体を潜り込ませた。
起こしてはいけないと頭の隅で思いながらも、自然と手は彼女の腰に回っていて、髪の毛に顔をうずめるようにしながら、柔らかく身体を抱きしめた。
『......ん』
「......」
『...結弦?』
「ごめん、起こした?」
『...んーん、大丈夫。おかえり』
「ただいま」
彼女は目を覚ます。かすれた声で俺を受け入れてくれて、抱き寄せる腕についつい力を込めてしまう。
まだすこし寝惚けた様子の彼女に、たまらず唇を寄せる。
全てを愛でるように、額や瞼、頬、唇、首筋と次第に下降していく。
彼女はくすぐったそうに身をよじって、小さく笑い声をあげた。
『...ん、ちょっと』
「...ん?」
『...くすぐったいんだけど」
「......」
『...やめてよ、なに?』
俺の服の裾を掴む手の力が次第に強くなるのに、少しだけ感情が高ぶる。
身体を動かしているうちに徐々にずり下がっていた毛布を、もう一度頭からすっぽり掛け直すと、柔らかく閉鎖された空間に彼女と俺が収まる。
なんだこれ。なんか秘密基地っぽいな、と心の中で笑いながら。俺は少しずつ意識をはっきりと取り戻したような彼女に話しかける。
「一緒に暮らし始めてよかったな」
『……へ、どうしたの急に』
寝起きの鼻にかかった声が俺の鼓膜を心地よく揺らす。
なんとなく思ったことを口にしたら驚かれた、急にじゃなくて、暮らし始めてからずっと思ってたことなんだけどな。
何故だか今伝えたくなったんだ。
「帰ったらいるんだもんなー...」
『......』
「なんか、凄いほっとする」
『...安心材料になれてますか?私は...』
「うん、十分すぎるくらい」
『...そんなの。私だって一緒だよ?』
「え?」
『...結弦が帰ってきてくれるから、』
闇の中でも、彼女を肌で感じることができる。
伸びてきた腕が俺の首に回ったようだ。
密着した身体は一層熱を帯びて。
それでもしばらくして、胸元から聞こえてきた寝息に少しがっかりしながらも、彼女の子供みたいな寝顔をみると無性に和んでしまう自分がいて。
本当に溢れるくらいの幸せを噛みしめながら、今日も二人で眠りに落ちていく。
一体化する彼女の温度に癒されすぎて、何故か少しだけ泣きそうになった、っていうのは―――
彼女にする、たった一つの隠し事。
(ふいに頭の中に新しいメロディーが浮かんでくる)
こんな曲で。いつか舞えたらいいな。