・紅郎との日々
□人間万事塞翁が馬
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やってしまった。そそっかしい私はジャケットの袖についていたボタンを引っかけてしまったのだ。案の定ボタンはあっさりと取れて床に落ちた。本当に一瞬の出来事なんだけど、気づいたときには已に遅いというかなんというか。朝からテンションががた落ちになる。正直このくそ忙しい朝の時間には勘弁してほしい出来事だ。
まぁ上下の色が違ってもいいかと思いクローゼットを漁っていると、紅郎が起きてきた。
「おはよう、ごめん、起こしちゃった?」
「はよ。嬢ちゃん。今日も元気だな。何か探し物か?」
そう言ってクローゼットの中に目を向ける。寝起きだというのに、目覚めはいいのか、しゃっきりしている。ただいつもきちんと立っている髪はくしゃりとしていて、プライベート感がでている。いつものみんなが知ってるぱりっとした紅郎も好きだが、シャワーを浴びた後とか、寝起きの紅郎はなんだか特別感があった。なんて見とれている場合ではない。急がないと間に合わない。とりあえず手頃なジャケットをつかみ着ていたものを脱ぐ。
「おいおい…男の前でシャツ一枚になるな。着替えるならちゃんと出て行くから言ってくれ。にしても、そのジャケットじゃ駄目だったのか?」
「ううん、問題はないんだけど…ちょっと…」
何となく言いづらくて目をそらすと、紅郎は私の手からジャケットを取ると少し眉間に皺を寄せた。
「無理に引っ張っちまったんだな。これくらいならすぐ直せるから、ちょっと待ってな。」
「でも起き抜けでしょ。」
「意識はちゃんとしてる。大丈夫だ。任せとけ。その間カーディガンでも羽織ってろ。」
ふわりと肩に掛けられたのは普段気に入って着ているカーディガン。紅郎が一から編んでくれたものだ。見てるだけで頭が痛くなりそうな細い細い毛糸で編んだものは肌寒いときは温かく、夏は薄くて風通しの良い万能ものだった。
その間にも紅郎は自前の裁縫セットを持ってきて作業を始めた。申し訳ないけれど、時間がないので私は私で洗面台に飛んでいって化粧をする。
化粧を終えて洗面所から出て来ると、紅郎はキッチンに立っていた。
「もうできたの?」
すごい、と声を上げると、照れたように頬をかきながら、「これがほんとの朝飯前だな」なんて返される。
「ほら、嬢ちゃん。」
そういって羽織りやすいように広げつつも、彼女のシャツ一枚の姿を直視しないよう目を少しそらすあたり、やはり優しい。お言葉に甘えて着せてもらう。たったボタン一個なのに、もう魔法のジャケットだ。
「ちょっと待った。これも持っていきな。」
そういって渡されたのは可愛い巾着。ほんわりと温かい。
「待ってる間に握っといた。簡単なもんで悪いが、よかったらあとで食べてくれ。」
お礼にキスをすると、「せっかくした化粧が崩れちまうだろ」なんて言うんだからかわいい。悪いことの後には良いことがある。だから今日帰ったら、今度は私が紅郎に良いことを沢山プレゼントしよう。
題:人間万事塞翁が馬