・縁
□19 受容
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19 受容
「蒼生、俺の名も…呼んではくれないか。」
「…まさと。」
名前を呼んだ瞬間、蒼生は肩に置かれた真斗の指先に僅かながらも力が入るのを感じた。
しかしその指先から伝わる体温に不思議と安心感を覚える。そんな蒼生の気持ちを知ってか知らぬか、真斗は自分の肩に寄りかからせるよう蒼生の身体を抱きしめた。
「人から名を呼ばれることが、こんなにも幸せだということを、今までの俺は知らなかった。」
「私も…その……」
「ん…?なんだ?」
蒼生が恥ずかしさの余り言い淀んでなかなか先を言おうとしないことに、真斗は愛おしさからつい笑みが漏れてしまう。
抱き寄せていた手を頭に置き、答えを促すよう優しく撫でる。
「教えてくれ。蒼生のことは、どんなことでも知りたい。」
「その…本名で呼ばれることも、こうして触れてもらえることも、嬉しいです。」
「あぁ、俺も同じ気持ちだ。ずっと…ずっとこうしたかった。覚えているか、初めてここで会った日のことを。」
「ええ、今では、とてもはっきりと思い出せます。」
「俺を…受け入れてくれるか。」
「はい。」
「そうか。…ありがとう。」
しばらくの間、ほんの一時だったが二人は愛を囁きあうと、この思いを遂げると約束を交わしあった。
そうして真斗は蒼生にまた必ず会いに来ると言い残し、元来た道を辿って帰っていった。
そんな二人に背中を向けるように、藍は柱に寄りかかりことの成り行きを見守っていたが、真斗が竹林に入ったのを見届けるとこっそり後を追った。
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真斗がうっそうとした竹林を抜けると境内のそばに出たが、そこで待ち受けていたのは藍だった。
二人はしばらく無言で立ち尽くしていたが、先に静寂を破ったのは藍だった。
「…蒼生が決めたことなら、ボクは何も言わない。けれど家同士のこともあるから、はいよかったねとは言わないよ。」
射貫くようなアイスブルーが月明かりに照らされ、真斗の心に容赦なく突き刺さる。あの空間は二人だけだったはずなのに、まるで自分たちが今まで何をしていたか詳細に知っているかの口ぶりに真斗は狼狽を隠せなかった。それでも咎められるようなことはしていないと思い直すとはっきりした口調で返す。
「重々承知しております。ただ俺は…!」
「蒼生と正式に婚約するためにこの先何が必要か、真斗は知ってるの?」
月の光を受けて光るアイスブルーの瞳は並々ならぬ思いが宿っているようだったが、真斗は以前のように気圧されることなくしっかり受け止めると首を横に振った。
「 簡単に言えば誰にも姿を見られず蒼生の元に通い夜を共にする。日が昇る前に部屋をでて、すぐ文を送る。それが三日間出来たら婚約成立。そこから初めて所謂世間一般のような交際ができるようになるよ。どのみち蒼生に触れて本名まで知った以上、真斗と蒼生は結婚するしかないけどね。」
「俺は初めから蒼生と生涯を共にしようと考えておりました。決して中途半端な気持ちなんかではありません…!」
「そう。社長はなんて?」
「先日正直に打ち明け、直談判しにいきました。成り行きを見守るとだけで、まだ正式な返事は頂いておりません。」
再び静寂が訪れる。秋とはいえ、ひやっとした風が二人の間をすり抜けていく。足下に生い茂る笹の葉擦れの音が止んだ頃、藍は小さな声でぽつりと漏らした。
「…うまくいくといいね。」
「ありがとうございます。」
「早く行きな。もうすぐ舞が始まる。真斗の妹も、帳揚で出るはずだよ。」
「なっ…何故真衣が?!」
「はぁ…やっぱり知らなかったか。ま、ボクもさっき知ったんだけどね。少し前に藤崎の当主が真斗のお父さんと会って、真斗の妹を森ノ宮神社で行儀見習いさせる代わりに二人のことを認めると決めたそうだよ。彼女は今夜から社に入ることになるから、これが終わったら会っていくといいよ。妹君は菊樟に入るし、しばらくは修行漬けで外にも出られなくなるだろうから。名目上は蒼生の妹だけど、実質朱音が真斗の妹の面倒を見ることになる。」
この時絶句する真斗を知らず存ぜずといった顔で淡々と語る藍は、この男に一体どこまでのことを打ち明けるか考えあぐねていた。おそらく先程の話に関してきちんと理解できていない確率が高い。真斗のことだ、「夜を共にする」の意味が分からなくても驚きでもないが、さすがに三日三晩何もありませんでしたでは済まされない。神聖な場所で話を掘り返すのも野暮なことだが、念押しをした方が確実だ。
「ねぇ、真斗は女の人を抱いたことはある?」
「なっ…?!」
「あぁ、伝わらなかった?セッ…」
「ま、待ってください先輩!いきなりどうなさったのですか?!」
先程夜通う話をしたときには見られなかった反応だ。やっぱり分かっていなかったかと、藍は内心ため息を付きつつも声を潜める。
「儀式上、二人が正式に婚約するには真斗は蒼生のことを抱かなければならないんだけど…理解してる?」
「そっ…ま、待ってください。それは、その…」
真斗は藍が予想以上に慌て混乱していた。抱けない…とでも言うのだろうか。人間は好きな異性となら性行為に及ぶこともあるのは珍しいことではないはずだが、真面目一貫の真斗にとっては刺激が強すぎる話題だったらしい。
「それと、蒼生にもこの後このことは伝えるけれど…床教育はボクがするから。一応報告はしておいたからね。」
そう告げると、先程まで一人あたふたとしていた真斗の動きがぴたりと止まった。
「それは…どういうことでしょうか。」
怒りなのか、嫉妬なのか。少々の驚きや絶望も声のトーンからにじみ出ている。
藍は冷静に分析しながらも真斗の変化に興味を隠せなかった。煽るつもりはなかったが、やはり最後まで告げて正解だったかも知れない。今後のこともある、データは出来るだけ欲しいと思った藍は言葉を続けた。
「菊璋に性教育は存在しないからね。各家庭でお付きの人間が個々で行うのが決まりなんだ。もちろん生物の授業はあるから多少の知識はあるとは思うけど、実際何が行われるかは知らないだろうね…。蒼生にも、真斗とどんなことを行うのか伝える。それはもちろん蒼生が真斗に対して失礼のないよう床の上での振る舞いを教えるということ。それと初めては感じにくいらしいから、蒼生がちゃんと気持ちよくなれるよう快楽を引き出す手伝いもするってこと。理解した?」
「そんな…」
「今更だね。ボクは蒼生が小さい頃から毎日のように傍にいて湯浴みまで手伝ってきたんだよ。」
さも当然のことのように告げるも、真斗は信じられないといった様子で絶句していた。
しかしすぐに居住まいを正すと、少々言い出しにくそうに言葉を口にした。
「俺が、蒼生に教えるのではいけませんか。自分も…その、経験があるわけではありません。それに、こんなことを言うのも器量の狭いことだと分かっていますが…蒼生に触れる男は、俺だけでありたいと、思うのです。」
もし真斗が腹の内に黒いわだかまりを抱えたまま、素直に引き下がろうものならどうしてやろうかと思っていた藍だったが、真斗は存外骨のある人だったようだった。期待値を上回る成果に加え、見栄を張るような、長いものに素直に巻かれるだけの男ではないことが分かったことで、今回は渋々真斗の願いを聞き入れることにした。
その代わり藍は後日真斗にどうやって女性を抱くのか教えなければならなくなった。何も知らない二人が揃っても何も出来ないだろうし最悪の場合事故が起きかねない。万が一間違った知識などを持ち込まれても大変だ。
とにかく藍はその場から真斗を送り出すと、一人夜風に吹かれる。
「ボクが、もしロボットじゃなかったら…」
きっと、蒼生に触れることなんてとてもできやしないだろう。傍にいるなんてもってのほかだ。それは分かりきっていたはずなのに、いつか蒼生は結婚してボクの傍からはなれて第一の人が出来るなんて分かっていたはずだ。それなのにどうしてだろう。ボクには心がないはずなのに、体内が熱くて焼け焦げそうだった。
ロボットでなければ…恋が出来たかもしれない。でも、ロボットだったからこそ、ボクは今までもこれからも、ずっとずっと蒼生の傍にいられる。そんなことを思い何とか思考の整理をしているとかさりと葉ずれの音が聞こえた。
「予想より随分早かったか…。蒼生。隠れてもムダだよ。ボクにはそんなのお見通しだって分かってるよね。しかもそんな恰好で歩き回ったらダメだって何度も言ってるでしょ。」
「ごめんなさい。でも…」
「心配だった?真斗のこと。」
蒼生は不安を滲ませた顔でこくりと頷く。そんないじらしい姿に藍は人間の複雑な心境の変化の仕方に頭を悩ませていた。この間まであんなに拒否していたのに、蒼生はこの短時間ですっかり真斗の思い人らしくなってしまった。本当に不思議だ。もしや人間がという以前に、この森ノ宮の場所や血筋に関係するのだろうか。
ひとまず藍は自分の上着を脱ぐと蒼生肩に掛けた。
「ねぇ蒼生。蒼生は本当に真斗で良いの?」
「私は、生涯を共にするなら真斗がいいの。たとえそれが私が子供の頃に犯した過ちだったとしても、それはもはやそうなる宿命だったとでさえ思うのです。」
「じゃあ、宿命がなければ真斗でなくてもよかったの?」
「いいえ…きっと私たちはあのとき出会っていなくても、こうなっていたと思うわ。」
「それは…蒼生は真斗じゃなきゃダメだってこと?」
「そうね…そういうことで合っているわ。私たちは出会うべくして出会ったし、こうなることは決まっていたの。私も真斗も、それを互いに受け入れるだけではなく心から望んだの。」
初めて会ったときから…正しくはあの寮のロビーで再会してからというもの、真斗は何かと縁があったように思う。それが子供の頃に願った結果に繋がる過程だったとしても、真斗のように素敵な人に心惹かれない方が無理な話だったのだ。
ただ…だからこそ、森ノ宮や自分の希有な運命に巻き込むわけにはいかないとさえ思った。まして真斗はアイドルで、人々に希望や愛を届けるのが仕事だ。それは真斗が跡取りとしての道を捨ててまで望んだ夢だ。自分といることでその夢が絶たれてしまったらと思うと、蒼生にはとにかく恐ろしかった。しかしその時点で気づくべきだった。自分が真斗に対しそれほどまでの心の砕きようを持ち合わせていたことを。自分の気持ちに必死になって蓋をしていたことを。彼はそれを、まるで初めから存在しなかったかのように振る舞った。熱く燃えるような情熱を一途に捧げられ、今日ようやく私は素直になることが出来たのだった。
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