・No one…
□一つのみつやく
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「お風呂、お先にいただくね。」
「おー、了解。」
三月は台所で今日の晩ご飯を作りつつ、洗面所から聞こえた朔の声に生返事をした。
朔が小鳥遊寮に来て、そろそろ二週間が経とうとしていた。
しかし生活に一人加わったからとはいえ、みんな特に変わった事もなく過ごしていた。
そんな中、一日中寮にいる朔が夕方のかなり早い時間から風呂に入る習慣があることを三月が知ったのは、ここ数日のことだ。
風呂に入ると言っても、朔の場合例えるなら烏の行水だ。
湯船には浸からないのか、ロングヘアーなのにシャワーもあっという間で10分もすると出て来る。以前ドライヤーを使わないのかと聞いたら面倒だからいいと言ってタオルドライだけで済ませていた。
「なんだろなー、やっぱ習慣なのかな〜。あ、やべ、醤油切らしてんじゃんかよ…。ったく。」
三月はエプロンを外すと、財布とスマホだけ持った。
「…高いけど、そこのコンビニでいっか。」
正直朔一人残していくのは後ろめたかったが、子供じゃないし、10分もあれば行って帰ってこられるだろうと声も掛けずに出た。
コンビニに着いたとき、三月は一人あっと声を上げる。
「しまった。そういや洗面所の鍵壊れてたんだ。」
ま、誰も困るようなこともないしいっか、とそのまま店内に入った。
ぽたぽたと髪から垂れる雫。
いつもなら気になってすぐに拭き取るが、今日はそれどころではなかった。
どうしてか、鍵を掛けたはずなのに扉が開いてしまった。
そしてそこには恐らく学校帰りであろう一織が、見たこともないほどに目を丸くして立っていた。
仕方ないから咄嗟に中に引き込んで扉を閉めると、逃げられないよう一織の顔の横に手を突く。
「おかえり、一織。鍵、掛けていた思うんだけど…壊してまで開けたかった?結構好奇心旺盛なんだね。」
「ち、違いますよ!普通に開きました!それよりあなた…。」
「しっ…。ダメだよ。」
一織は何がどうなっているのか、状況の整理に努めた。
学校から帰ると寮内は静かだった。
その代わり台所からは出汁の良い香りがしていた。
オレンジの見馴れたエプロンが置いてあったので、兄さんが醤油でも切らしてコンビニに買いに走っているのだろうと思い、ひとまず手を洗おうと洗面所の扉を開けた。
そしたら、目の前には、世界的作曲家NOneが…半裸で立っていた。
しかもあろうことか、下は男物のボクサーパンツなのに、かろうじてタオルで隠している上半身は、どう見ても男性にはない膨らみが見て取れる。
確かに…確かに男性だとは言っていなかった。
だからといって男だらけの寮に住むだなんて異常としか言えない。
「ど、どうして…どうして女性だと名乗り出なかったのですか。」
「必要がないと思ったんだ。それに万理は知ってる。なによりここに住むことを提案したのは万理と音晴さんだ。」
「だからって…断ればいいでしょう。」
「君たちがどんな人たちかも知らないのに曲は書けない。そう言ったよね。判断するためにはこうするのが一番良いと思ったんだ。何より君たちはアイドル…芸能人だ。信用第一ならきっと手荒なことはしてこないだろうと思ってね。」
「あなた…無茶苦茶ですよ、それ。今からでも報告します。」
「そう?でもばらしたら…多分困るのは一織だよね。」
「なぜです。」
「こんなあられもない姿見ちゃってるから。」
ね?とでも言うような朔の言葉や視線から逃げるように、一織は顔を背けた。
しかし背けた方には鏡があり、寧ろ今の状況を客観的に見るはめになった。
急いで顔を反対側に向けると、くすくすと笑う声が聞こえる。
「だってさぁ、なんて報告するの?どうする?洗面所に入ったらメンズの下着を着けているのに胸がふっくらしてる半裸の作曲家が立ってましたって言う?」
「やっ、止めてください。私はまだ高校生ですよ?」
相変わらずクスクスと笑う声に一織は苛立ちだけが募っていく。それでも何とか冷静にその場をおさめようと必死に頭を働かせる。
「…質問があります。なぜ身につけているのがメンズの下着なんですか。」
「ああ、これね。この間千斗の家に泊まったときに、百瀬が新品だから使っていいってくれたんだ。自分で選んだ物ではなく、人様からの好意だよ。」
「夕凪さん、あなたは罪深い人ですね。」
「朔。」
「は?」
「朔って呼ぼうか。あんまり人称や苗字で呼ばれることを好まないんだ。一織なら出来るよね?」
「…取引、ですか。」
「そうだね。頭の良い一織ならたやすいことだと思うよ?」
「…分かりました。朔さんも今日のことは絶対内密にしてください。」
「さんづけか。本当は敬称もない方がいいけど…まぁ、そこはかわいい一織に免じて許してあげよう。いいよ。交渉成立。いいかい一織、口約束でもきちんとした契約になるから、不履行にならないよう気をつけるんだよ。」
「あれ、一織〜!帰ってるのか〜?」
「……兄さんが帰ってきたようです。朔さんは一度お風呂場に戻ってください。無論私が洗面所を出たら速やかに着替えてください。鍵の件はすぐ事務所に報告して修理に来てもらいます。修理が済みましたらご報告に伺いますので、それまでこちらの使用は十分気をつけてください。」
「ありがとう。一織は信用しても大丈夫だって分かっただけでも、今日は大きな収穫だよ。」
一織は朔が風呂場に戻り扉を閉めた事を確認すると、深呼吸をしてからリビングに戻った。
「おかえり一織。あ、もしかして朔と鉢合わせたか?」
「いえ、大丈夫でした。ですが鍵が壊れていることに気づいていないようでしたので、一言伝えておきました。」
「お〜サンキュー。ま、正直俺たちは壊れててもあんまり気にならないんだけどな。ナギと朔くらいか?律儀に鍵掛けてるの。海外組は繊細だから早めに直してもらわないとだな〜。」
「そうですね…私、今事務所に行ってきます。」
「あっ、おい一織…なんだぁ?なんか変だな…。まぁいっか。」
半ば飛び出すように寮を出た一織は、自分の心臓が痛いくらい激しく鼓動を打つのが走っているせいだと言い聞かせた。
世界的作曲家の秘密を、自分だけが知ってしまったという感情の高ぶりと、大人の女性のあられもない姿を間近で見てしまった罪悪感でぐちゃぐちゃになった理性を整えるのに、暫し時間を要したのは誰も知るところがなかった。