Story

□独白
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この一年は、僕の人生の中で稀有な、奇跡の時間だった。

きっとこれから歳をとってこの一年を振り返ったとしても、そう思うだろう。




普通、コーチは選手とずっと一緒に過ごす事はない。

契約上、そのように出来れば可能かもしれないが、通常、コーチは幾人かの選手を抱えているものだ。

競技自体が被らないように、シニアとジュニアの選手を兼任する事が多いと思う。

僕にもずっとコーチがいた。

日本のスケ連から紹介された人だ。

他にもサポートしてくれる人が何人か。

筋トレの指導や、栄養管理をしてくれていた。

「金メダル、取りましょう!」

たまに会うたびに熱くそう言われ、僕の心はどこか冷えて行ったような気がする。

それは僕が、金メダルをなかなか取れなかったせい、だとも思う。

意を決してデトロイトに拠点を移したときも、その人たちはついてきていた。

と言っても、ある一定の期間を置いて渡米してきて顔を出し、メニューを指示して日本に戻っていく。そんな感じだった。

「勇利って、凄いんだね!」

デトロイトで出会ったピチット君に、そう言われたのが印象的だった。

彼はそういったサポート無しで、ここまで来たという。

彼のコーチは、チェレスティーノ。

「チャオチャオだよ!」

ピチット君はそう呼んでいた。

なぜかと聞くと、「挨拶の時、チャオチャオ!って言うから。面白くって」

そう言って笑っていた。



その彼が、交通事故で怪我をした。

スケートが大好きで、同じ夢を持っていて、一晩中好きなスケートを語れる、唯一の存在だった彼が。

病院のベッドに横たわる彼を見て、涙が出そうになった。

怖くて怖くて。

目を覚まさないんじゃないかと思って。

その彼は、目を覚ました後は飄々として笑ってそこに居る。

包帯だらけの自分を見て「ミイラの仮装みたいだね」なんて言ったりもした。

交通事故の理由は、逃げ出したハムスターを追いかけていたのだ言う。

彼らしい、理由だった。

そのハムスターは、まだ元気に彼に飼われている。

「チャオチャオ、勇利のコーチしてよ」

そう言い出したのはピチット君だった。

「暇でしょ?僕しばらく動けないし。今期は試合も無理だろうって先生が」

彼の目に、涙が溢れそうになったので、僕は顔を反らした。

きっと、見られたくないはずだから。

「勇利も、きっとチャオチャオの方が合ってるよ。あの陰湿コーチなんかより!」

ピチット君の、明るい声が耳に届く。

彼は知っていたのか。

日本語は分からないはずなのに…。調べたのか。

僕は「ヴィクトルの偽者!」とか「真似するな!」などとコーチから言われ続けていた。

コーチからすれば、僕がヴィクトルを真似をしたからといって、同じように滑れるわけじゃない。そう言いたかっただけかも知れない。

ただ、僕にとってその言葉は研ぎ澄まされた刃の様に胸に刺さって、…抜けなくなっていた。

やりたい事を伝えると、「それはヴィクトルの真似か?」そう言われるのが常だった。

もちろん、ヴィクトルはいろいろな事を先駆的にやってきた。4回転をフリーで4回初めて飛んだのも彼だった。

それでも、僕は僕なりに考えて提案をしていた。

でも、コーチとの衝突が怖くなり、次第に提案する事を諦めてしまっていった。

彼のいうことをとりあえず聞いていれば、大会である程度安定して得点が取れた。

それでも、金メダルには手が届かなかったけれど。

このシーズン僕は、目標に「試合で泣かない」と書いた。今思えば、そう書くくらいに追い詰められていたんだと分かる。

僕はデトロイトのリンクでチャオチャオがピチット君を指導する姿を見ていた。

ピチット君と彼は、とても対等な存在に見えて、正直羨ましかった。

「勇利、どうする?」

ピチット君は、僕の腕を掴んだ。

僕はピチット君を見る。

真剣な彼の顔を真正面から見たのは初めてだったかもしれない。

「僕の代わりに、金メダル取ってよ」

茶化す事無くそう言われ、僕の心は固まった。



それから、スケ連にスタッフ全員の解雇を申し入れた。

チャオチャオの指導料は、彼ら全部を辞めさせてもまだ足りないくらいだった。

いくらかの貯金と、スポンサーからの仕事、親にお願いしてお金を借りて、何とか借金せずに支払える。そんな金額だった。

コーチになったチャオチャオは、僕の意見を取り入れようとしてくれていたように思う。

でも僕の悪い癖はなかなか直らなかった。

自分の言いたい事を、言い出せずに終わる事が多かった。

それでも、チャオチャオは僕を「ヴィクトルの偽者」とは言わなかったから、それだけで安心してスケートに打ち込む事が出来た。



グランプリシリーズのアサインが出たとき、僕はがっかりした。

ヴィクトルと試合が被らなかったのだ。

このシーズンは他のどの大会でも、ヴィクトルと試合が被る事は無かった。

ここまで来ると、本当に運が無いのかと思ったほどだ。

でも、ファイナルまで行ければ、同じリンクに立てる。

そう思ったから、頑張った。



ファイナルまで残った僕は、数日前から現地入りをして時差ボケを整えていた。

調子は悪くなかった。

でも、ヴィっちゃんの具合が良くない。

家族は家に電話をするなと言っていた。

でも、気になって仕方なくてどうしても電話をかけた。

辛そうな様子が、映像で分かる。

「終わったら、すぐ帰るからね!」

目の開かない彼に、何度もそう伝えた。

そのストレスからか、無意識に食べてしまっていたようだ。

日々の減量の辛さもあったのかもしれない。

ファイナルまでこれた安心感もあったかもしれない。

慣れない場所での食事は一人で取る事が多く、チャオチャオが気づいた時には体重が2キロも増えていた。

体が重くて、ジャンプが飛べない。

そんな自分に、自信を失っていった。

練習を同じくするヴィクトルは、調子も良さそうだった。

今までのテレビ越しじゃない、客席からでもない。

目の前で滑る彼は、圧巻だった。

彼が滑り始めると、リンクに居る全ての人が彼を見つめた。

彼はその視線に答えるように、エレメンツを繰り出してゆく。

一つ一つの動きが、まるで音楽そのもののように美しく、それは途切れる事なく滑らかだった。

そうしてそれが、リンク端に居るはずなのに自分の目の前で行われているように錯覚させるほど、魅了される物で。

人が持つエネルギーというのは、こうも美しく、力強いものなのかと思わずには居られなかった。

指先の動き一つで、会場の空気が変わる。

僕はため息をついていたと思う。

練習の終わり、彼とすれ違った。

滑り終わった彼は、もちろん息も荒く、汗もかいていた。

ヴィクトルもそうなるんだ。

当たり前の事なのだが、その時の僕はそう思った。

そう思うほどに、彼は遠い存在だったのだ。

彼が僕の横を通り過ぎた時、その熱が僕の体に染みた気がした。



ヴィっちゃんが天国へ行ったのを知ったのは、試合前日だった。

いつもの様に家に電話をしても、誰も出ない。

いろいろな人に電話をしまくって、ミナコ先生がようやくそのことを教えてくれた。

知らないままの方が良いとは思ったんだけど、寛子たちが隠し通せるとも思えないし。

そう言っていた。

僕はそれを聞いてようやく、家に電話するのをやめて練習を再開する事が出来たから、ミナコ先生の判断は正しかったと思う。



それでも。

初めての晴れ舞台、グランプリファイナルは不調に終わった。

僕はもう、途方に暮れていた。

会場からの帰りしな、ヴィクトルと目が合う。

「記念写真?いいよ」

それは一ファンに向けての言葉だった。

僕は胸が締め付けられて、痛くて、痛くて、その場を逃げ出した。

彼にとって僕はその時、どんな立場の人間だったのだろう。

今でもそれは、彼に聞けずにいる。




年が明けて、ピチット君の怪我も治り、チャオチャオは本格的に彼のコーチに復帰した。

それもあって、僕はコーチ契約を解消した。

この時の僕は、空っぽだった気がする。

目の前のやる事をこなすだけで、これからの事が考えられずに居た。

いや、考えたくなかったのかもしれない。

僕はなんとか大学を卒業して、実家に帰った。



でも。

忘れられない。

あの日は桜が咲いていたのに、雪が降っていた。

「俺はお前のコーチになる」

ヴィクトルだ。

裸でそう言われ、僕の意識は遠退きそうになった。




恐らく初めは、これはヴィクトルにとってバカンス程度の意識だったように思う。

実際にヴィクトルが僕の指導をする。そんな記事がネットに流れても、いつものゴシップ如く相手にされていなかったし。

それが、彼がインスタに長谷津の写真を上げたことで、一気に現実だと世界中に認識された。

大分大騒ぎになったようだけれど、いつの間にかそれも収まっていた。

あれはやっぱり、ロシアのスケ連が出てきたんだろうか。



ヴィクトルは、不思議な人だった。

楽しい事が大好きで、人が笑うのが好き。

明け透けの様に見えて、自分の心の内は覗かせない。

そんな人の様に見えた。

それでも彼は、僕に真摯に接してくれた。

「勇利に自信を付けさせる事。それが俺の仕事」

常々そう言っていた。

僕が思う事を言っても、ちゃんと否定せずに話を最後まで聞いてくれた。

エロスがカツ丼なんて、突飛な発想でも「それでいこう」と受け入れてくれた。

僕が彼から逃げ出した時も、彼は歩み寄ってくれた。

子供の様な無邪気さと、大人の成熟を併せ持つ人、それがヴィクトルなんだと思う。

そうしてそれが、彼の魅力となってスケーティングに現れるのかもしれない。



練習の時、彼は僕のスケートを、とても良く褒めてくれた。

「わお!それは俺が以前やったステップだね?勇利が滑ると、また違う魅力がでるね」

嬉しそうにそう言われ、僕の心は踊った。

そうして、その時にヴィクトルが注意していた事、していた練習なんかを教えてくれた。

いくつか演技に取り入れていったものもある。

それにロシア式の基礎を徹底的に叩き込まれた。

「基礎は大切。美しい型、動きを身に染みこませる事が大事なんだ。癖みたいな余計な物をそぎ落として、そぎ落として、美しい動きを作る。それでもなおにじみ出てくる物。それが本物の個性だよ」

そうよく言っていた。

それに、僕は凄く恵まれていた。

ヴィクトルが、ずっと練習を見てくれていたのだ。

以前も言ったように、普通コーチは幾人もの生徒を抱えている。

同じリンク内ならともかく、世界中を飛び回っていて、一ヶ月にあるいは数ヶ月に一定の期間指導にくる、というのが当たり前の世界だ。

それが、違った。

一日中、ヴィクトルは僕の練習を見てくれたし、僕もヴィクトルの練習を見ることが出来た。

彼は時折ロシアのスタッフに連絡を取っているらしく、そこで聞いたアドバイスを教えてくれたりもした。

惜しみなく、僕に全てを与えてくれたんだと今は分かる。



二人で戦うグランプリファイナルが、幕を開ける。

ヴィクトルがくれた、沢山のもの。

それを僕は「愛」と呼ぶことにした。

ヴィクトルの「愛」を証明できるのは、僕しかいない。


…見ていてね、ヴィクトル。

心の中でそう呟いて、彼の方を見る。

彼は僕の視線に気づくと、「何?」と笑った。


空港を出ると、スペインの風は少し冷やりとしていた。

まるでスケーターの僕らを歓迎しているかのように。



end


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