現パロ小十郎
□始まりのあれこれ
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カタカタとキーボードの音が響く。
就業時間は9時から5時まで、残業は月数回。
同僚とアフター5を楽しんで、時には自分磨きでジムに通う。
週末となればお洒落なバーでお酒を楽しみ、そこで出会った素敵な人と恋に落ちる。
そんな夢見ていた私のOL生活はものの3ヶ月で幕を下ろした。
正確にいえば、新人研修の2ヶ月間があった為、OLとして働いたのはたったのひと月だけ。
そして、私が今居るこの場所は社内で一番忙しいと思われる人物のいる場所。
ーー地上48階 社長室。
正確には社長室の前に有る秘書用のデスクだけれども。
「苗字さん、来月までの政宗様のスケジュールが知りたいんだけど」
「あ、はい。もう、再来月までクラウドに上げてあります」
「あ、ありがとう!」
「苗字さん! 10日の会議で使うレジュメの一部が変わったんだけどそれって…」
「はい! 修正終わってます! メールしておきますので」
「宜しく!」
次々と飛び込んでくる別部署の社員への対応を終えて直ぐに、手元の電話が外線を知らせた。
RRRR....
「はい、社長室の苗字でございます。…あ、服部様。いつも大変お世話になって居ります。はい、来週の食事会の予定についてですね。スケジュールに関してはメールで送らせて頂いた通りですが…はい、はい…では、確認次第折り返しご連絡させていただきます…」
取引先の社長秘書から食事会のスケジュール調整についての連絡が入り、急いで手元のシステム手帳に要件を書き込む。
RRRR....
受話器を置けばまた直ぐに電話が内線を告げた。
「はい、社長室の…あ、田中さん。ええ、その書類なら今作ってますので明日のお昼には…ええっ!? 朝イチですか!? …わ、分かりました…朝イチまでに用意します」
頬と肩に受話器を挟み、手帳のスケジュール欄の「昼まで」の文字を乱暴に斜線を引いて消し「朝イチ!!」と殴り書いた。
次々と増えていく手帳のTo-Doリスト。
今日この数時間だけで確認項目と、準備資料が山のように増えていく。
そして、今私の目の前のPCに映し出されているExcelの資料は明日急遽朝イチの会議に必要となった資料だと言うのに、鳴り止まない電話と次々と増えていく雑務に追われてまるで進む様子が無い。
「…今日も残業かぁ…」
ひょんな事から社長秘書として働き始めて半年、持ち前の負けん気の強さでなんとか秘書業務にも慣れて来ていた。
しかし、営業事務として入社した筈が何故か一変、社長秘書として全く経験も無い世界に身を置く事になってしまった。
お給料は確かに良くはなったけれど、月数回だった残業はほぼ毎日のように有り、以前から入れていた予定すら緊急の案件に潰される事も当たり前だった。
唯一の救いと言えば、短大時代に就活に有利だと聞いてとっておいた秘書検定の資格が辛うじて爪の先程度には役に立った事くらいだった。
はぁ…と虚しいため息を吐いて、ハッと時計を見て青ざめた。
「いけない!政宗様のお夕飯の準備しなきゃ!!」
そして私は慌てて社長室の隣に据え付けられた、給湯室…とは名ばかりの立派過ぎるキッチンに向かった。
「政宗様、お食事をお持ちしました」
「ああ、ありがとう」
社長室に入り、先程打ち合わせから戻ってきた政宗様がこちらを見て口元だけで微笑んだ。
奥州グループ52社を総括する、奥州ホールディングス株式会社 代表取締役社長 伊達政宗様。
若くしてその地位を踏襲した実力者。
確かな経営手腕と手段を選ばない営業戦略で、グループを日本で有数の巨大企業へと発展させた張本人だ。
メディアなどではその妥協の無い経営方針が竜の如く鋭いと、“独眼竜”と呼ばれる事もあった。
殿上人だと思っていたその人だったけれど、実際会ってみてその素顔に驚いた。
「今日は栗ご飯にしてみました」
「ああ…美味しそうだな」
目の前の栗ご飯を見て静かに微笑む政宗様。
本当にそう思っていると言わんばかりに柔らかく細められた瞳に、作り手としても暖かい気持ちになってくる。
私の目の前にいるその人は、とても寡黙で、静かな優しさを持った穏やかな青年と言う方が正しかった。
そして私が社長室勤務になった何よりの理由はこの「政宗様のお食事」を作る事に他ならない。
元々実家が小料理屋だった私にとって、料理は生活から切っても切り離せないものだった。
上京して一人暮らしを始めてからも節約の為に毎日自炊をしてお弁当を持参していた。
そのお弁当をひょんな事から口にした政宗様に気に入られ、翌日まさかの社長室勤務の辞令が下りたのだった。
「政宗様、お戻りでしたか」
私が政宗様にお茶を入れていると、ガチャりと社長室のドアが開く音と、低く艶のある声が背中側から聞こえてきた。
「…小十郎。どうした」
トツトツと落ち着いた足音が聞こえ、振り向けばそこには仕立ての良いスーツに身を包んだ長身の美丈夫の姿。
片倉小十郎様だった。
片倉様は竜の右腕と呼ばれる、この奥州ホールディングスの副社長だ。
前社長の代から奥州グループに勤め、その手腕を買われて政宗様が会社を継ぐ際に副社長として経営に携わる事になったと聞いた。
そして、政宗様の食事係兼秘書として私を突然抜擢したのもこの片倉様だった。
「ああ…、お食事中でしたか。失礼しました」
片倉様は私の隣に並ぶと、食事の用意を目の前にした政宗様を見て申し訳無さそうに柳眉を下げた。
「いや、構わない。用件なら先に聞く」
まだ箸を取る前だった政宗様は、小十郎様を見上げて静かにそう答えた。
「はい、では失礼します。…例の件ですが、先方の動きが…」
((私は出て行ったほうが良いよね…))
ペコリと頭を下げると、抱えていたトレーを持って社長室を出る。
秘書とは言うものの、私の仕事の殆どは事務仕事とスケジュール管理で、実務的な部分の補佐はすべて片倉様が担っていた。
自分のデスクに戻り、折り返しの電話を掛け終えると、先程作っていたExcelの資料作成を再開する。
政宗様の夕食を作っていた間に、いつの間にか就業時間は過ぎて居り、他部署からの訪問者も無ければ電話も鳴らなくなっていた。
良くも悪くも漸く資料作成に集中する事が出来るようになった、と息を吐いてPCに向かった。
カタカタカタカタ…
キーボードを叩く音と資料の紙を捲る音が響く。
いつの間にか、PCの時計は22時を回っていた。
5時間以上大量の資料の打ち込みと整理を続けた結果、漸く完成の兆しが見えてきた。
今日は久々に終電前に帰れるな、とホッとした時だった。
「ん…? これって…ええっ!!」
突然PCの画面に表示された意味不明の英語の警告文。
Yesかcancelかを問うダイアログに思考が完全に停止してしまう。
「こ…これ…間違った方押したら消えちゃう…よね…」
明らかに不穏な表示が出ているにも関わらず、そのダイアログ以外の領域はマウスすらも反応してくれない。
「うそ…これ…まだ保存してないのに…」
前回保存したのは何時間前だったか。
こんな事になるのなら、こまめに保存する癖を付けておけば良かったと、自分を呪うばかりだった。
ドキンドキンと動悸が耳にまで響き、顔が一気に青ざめていくのが分かる。
もし、万が一消えてしまえば今日は徹夜でこれを仕上げるしかなくなってしまう。
「もう、覚悟を決めてどっちか押すしか無いよね…」
こうなったらヤケだ。
1日位寝なくたって死ぬ事は無い。
そう思って、Yesのボタンを押そうとした時だった。
「苗字…まだ残って居たのか?」
「えっ…!?」
突然掛けられた声にハッとして顔をあげる。
するとそこには、驚いたような顔をした片倉様が立っていた。
「か…片倉様…?」
「お疲れ様。残業か?」
「は…はい、急遽明日の朝イチで必要な資料の作成がありまして」
「ああ…なるほどな。もう22時も過ぎてる、そろそろ終わるのか?」
そう言って、片倉様はネクタイを緩めながら長い脚で私との距離を縮めた。
「それが…」
「ん?」
私が困ったように眉根を寄せそちらを見上げると、片倉様が私の背後に周りPCの画面を覗き込んだ。
ふわり…と、独特の苦味を孕んだ香りが仄かに鼻腔を擽る。
煙草だろうか。
普段仕事の話しをする程度で、こんな近くにその姿を感じる事の無い相手に身を固くしていると、片倉様はPCに映るダイアログを見て苦笑した。
「ああ、それで困っていたのか」
「は…はい…。これで消えてしまうと、あとは徹夜でやり直すしかなくて…」
「ちょっと貸してくれ」
「あ、はい」
そう言って、私が椅子から立ち上がると、片倉様がデスクに腕を突いた。
私の身長に合わせた高さの椅子は片倉様にはやはり低すぎたらしく、其処に座る事無く長い脚を交差させると、軽く腰を折ってPCを見下ろした。
カチャカチャとマウスとキーボードを操作する音が聞こえて、数秒後。
「これで大丈夫だろ」
「え! もう直ったんですか!?」
「ああ、保存もして置いた。」
「あ、ありがとうございます!!」
余りの早業とデータ消失の危機を回避出来た驚きと安堵でテンションが上がり、思わずガバッと勢いよく頭を下げる。
「はは。 苗字は元気だな」
片倉様が優しく微笑みを浮かべてこちらを見下ろす。
その精悍な顔立ちと、大人の色気の溢れる微笑みに思わずドキッとしてしまう。
「あ…」
片倉様と言えば、その敏腕ぶりも去ることながら、この甘いマスクと義理に厚い性格で全女性社員の憧れの的で有り、男性社員からも絶大な信頼を得ているのだ。
「所で、苗字…」
「は、はい!」
思わずぼうっとしてしまった私に向き直り片倉様が口を開いた。
「…ここの数字が間違っている」
「え…」
長い指先がPCの画面をトントンと指し示す。
資料の写し間違えだろうか、と慌ててその画面を覗き込む。
「この数字は最新のものでは無い。明日の朝イチの会議で使うなら最新の数字で落とし込まなければ意味がないだろう」
「あ…! もしかして、最新の数字ってもう出て…」
「今日の昼に出ている筈だ。」
「…やっちゃった…」
片倉様に言われるまで全く気付かずに、1つ古い資料を参考に書類を作成していたようだった。
「…やり直します…」
数字の修正だけなら、日付が変わる頃までにはできるだろう。
そう思って、小さく息を吐くと片倉様を見上げた。
「ありがとうございます。お陰様で間違った書類を作らずに済みました」
ペコッと頭を下げると、片倉様は苦笑しながら私の頭をポンとなでた。
「…私も手伝おう。2人ならさほど時間は掛からない。」
「えっ…でも…」
「遠慮は要らない。貴女の残業代を考えれば安いものだ。このまま深夜手当まで付いたら堪らないからな」
そう言って、いたずらっぽく笑う片倉様。
その笑顔にとくとくと小さく胸が鳴った。
「ありがとうございます…」
こうして、私はなんとか片倉様のお陰で日付が変わる前に必要な資料を作り上げることが出来たのだった。
まさか、この残業が運命の歯車を回すきっかけになっていたなんてその時は思いもしていなかった。
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