現パロ小十郎
□金曜日の恋人
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残りの仕事を片付けて、普段より早めに帰宅した午後8時。
一人暮らしにしては広すぎるマンションの玄関を開けてすぐに、その違和感に気づいて首を傾げる。
『ん……?』
玄関を開けた俺の耳に届くのは痛いほどの静寂。
料理に夢中になって、帰ってきたことに気づかないのだろうか。
首を傾げながらもリビングダイニングに続くドアを開けると、薄暗い部屋の中に有る無機質な家具だけが俺を出迎えたのだった。
『……弥彦?』
名前を呼ぶが答える者は無く、日常になった窓の外に広がる夜景がただそこにある。
『また残業しているのか……?』
頑張りすぎる恋人は時折、変に無茶をする。
今日も、週明けの重役会議に使う資料を夢中になって作っていた姿を思い出した。
((もしかして、時間を忘れて没頭してるのか……?))
ポケットに入れっぱなしになっていたスマホを見ても、何の通知も来てはいない。
弥彦からのメッセージボックスも空のままだ。
((とりあえず、もう少し待ってみるか))
スマホを片手で操作し帰宅した旨のメッセージを送り、ネクタイを外す。
残業していると言っても、まだ8時を過ぎたところだ。
下手すれば、日付が変わる寸前まで残業をする事もざらな生活を送っていれば、今はまだかなり早い時間だとも言える。
『人の事は言えないが、弥彦も大概ワーカホリックだな……』
テーブルの上に置いてある、煙草の箱に手を伸ばす。
そこから一本抜き取って、愛用のZippoに火をつけた時、ハッとする。
弥彦と会う日は吸わないと決めていた。
小料理屋の娘として育ち、味覚を大切にしてきた弥彦にとっては、タバコの煙も苦みも害でしかない。
一度、喫煙後にキスをした時に涙目になっていた姿を見てから、弥彦と会う日は吸わないと心に決めたのだ。
『……はあ……』
手の中でZippoを転がす。
シルバーのシンプルなZippoには、俺の名前が小さく刻印されている。
まだ政宗様が学生だった頃、モデルのアルバイトの初任給で買って下さった誕生日プレゼント。
それを何ともなしに眺めていると、磨きあげられた鏡面の向こう側で、物欲しげな顔をした自分と目が合った。
『……。』
弥彦が居ないと満たされない。
客観的に見た自分の呆けた表情に苦い気持ちになりながらスマホを取り出して先ほど送ったメッセージを確認する。
―――まだ既読にはなっていない。
((夢中で仕事って事か……?))
折角の金曜日だというのに、恋人よりも仕事を優先するなんて……と、恨みがましい思いがせりあがってくる。
よく考えれば、今まで自分が数多の女性達に同じ事をしてきた立場だけれど、その事実はこの際、窓の外に広がる闇に葬っておいた。
『……遅い』
弥彦にメッセージを送信してから一時間
一向に既読が付くことはなく、ただただ一人の時間だけが空しく過ぎていく。
『さすがに、もう切り上げてもいい頃だろう……』
火をつけないままのタバコを銜えては戻す、を何度繰り返したか分からない。
満たされない思いが、秒を追うごとに降り積もっていく。
((仕事を装って電話でもしてみるか……))
もし、社内で他の誰かがオフィスに残っていたとしても仕事の内容であればまだ体裁は成り立つだろう。
そんな自分の考えに気づき、眉間に皺が寄った。
ただ自分が弥彦の声を聴いて安心したいだけにも関わらず、回りくどい言い訳を用意しなくてはまともに電話も出来ないなんて。
そんな自分の立場と臆病さが時折酷く嫌になる。
火のついていないタバコを銜えたまま、スマホを取り出し恋人の名前をタップすれば、すぐに響くコール音。
―――しかし
『お客様のお掛けになった電話は、現在電波の届かない場所にあるか電源が入っていない為かかりません――……』
『……は?』
受話口から聞こえてきたのは、予想外に無機質なアナウンス。
『……なんだ……?』
この一時間で降り積もった弥彦への思いが、一瞬で焦りと不安に姿を変えた。
((事故にでも遭ったのか……、まさか事件にでも……))
そんな考えが頭を過るのとほぼ同時に、俺は車のキーとスマホを持って部屋を飛び出していた。
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