耐えられない痛みなんてこの世には存在しないと思っていた。 それが自分自身に振りかざされる時は死ぬ時だと確信していたのだから。 グシャリと音を立てて潰れた眼鏡が目の前で転がっている。 手を滑らせた自分も悪いが無意識にもそれを踏みつけた本人を睨みつけてしまった。 「あれ、なんか踏ん……えっ」 振り返った彼女は慌ててそれを拾い上げ、ワナワナ震えながらこちらへ差し出す。 頭を下げているために声の方向は下を向いているがはっきりと投げられる言葉が聞こえた。 「べ、弁償します」 反応を示さないことを不審に思ったのか恐る恐る顔を上げると今にも泣きそうな声で僕の名を口にする。 犬が悪さをして飼い主に叱られている時のような、そんな目を向けてくるものだから明良は質が悪い。 僕がその目に弱いことを知っているのだから。 「これ、石田くんの、だよね」 常にかけている僕の象徴とも言えるようなそれが顔に無いことでわかるだろう。 幼い頃からその姿を目にしている彼女なら容易にこなせるはずだ。 だけど僕が表情を顰めたままなのは、彼女の口から出される僕の呼び方に問題があると気付いて欲しい。 潰れた眼鏡など買い換えればいいものだし、こんな状況になったのは自分の責任でもある。 踏み潰される際に放った眼鏡の悲鳴のせいで咄嗟に彼女を睨んでしまったが、未だに自分の機嫌が悪いのはそれが原因でないと自覚している。 いつからか愛称で呼ばなくなった彼女は、本当に少しずつ僕との間に壁を作っているように感じた。 こうやって夢以外で接するのも久しぶりのことで、声を聞いたのも随分前のように思う。 朝目が覚めても、登下校中も、授業中ですら彼女のことを考えてしまうというのに、僕を極力視界に入れないようにしている彼女に腹が立つ。 彼女が手にしているひしゃげた眼鏡は片方だけレンズが外れていて、パキッと音がしたと思えば目の前にある細い足がゆっくりと上がった。 「あ、」 どうやら二次災害とも言えるような事態が起きたらしい。 フレームだけならまだしも今彼女の足の下で欠けていたレンズが割れてしまったようだ。 ゆっくりと僕へ向けられた目は潤みきっていて、本当に今にも泣いてしまいそうな顔をしていた。 「い、石田くん、あの、……おいくらでしょうか」 「……弁償なんて、しなくていいよ」 いびつな形で二枚になってしまったレンズを廊下に放置し、彼女の手首を掴んで踵を返した。 驚いたような声を上げるが抵抗をしない様子にズキリと胸が痛む。 思いきり握って乱暴に引いているはずなのに、拒否の言葉を口にしない彼女がどうして距離を置こうとするのだろう。 周りの視線が集まっていることに気付きはしたが、そんなものを気にしている心の余裕など微塵もなかった。 屋上への扉を開けばゾワリと冷たい風が身体を襲う。 だけど彼女の腕を掴んでいる手だけが汗ばんでいるように感じて一時も存在を頭から引き剥がすことを許されないようだった。 誰もいないそこは異空間とも思えるほど幻想的な空色で夜を迎える準備が整っているようだ。 沈みかけた夕日が一際眩しく輝いたように見えて目を細めてしまう。 ピクリと彼女の腕が強張ったのを感じて慌てて振り向いた。 「石田くん、……怒ってる?」 「……ああ」 肩を跳ね上げさせたのが風に押されて勢いよく閉まった扉のせいか僕の口から出たあまりにも低い声のせいかわからない。 だけど彼女から向けられる怯えた目は確実に僕を捉えているようだった。 「その呼び方、なに?」 ぼやけないようにと掴んでいた手首を思いきり引き寄せる。 間近に見る彼女の目は未だ潤んでいるようだ。 こんなに怖がられたのは初めてで、無意識に眉間に皺を寄せてしまう。 困りきった表情なんて何度も見たことがある。 だけどこんなにも泣きそうな目を僕に向けるなんて、彼女に僕は何をしたのだろう。 「明良、」 「っ、やめてっ」 名前を口にしただけだというのに彼女から放たれた言葉は拒否だった。 伏せた目と震える唇が僕という存在そのものを拒絶しているように感じる。 だったらどうして、この手を振り解かない。 耳に入ってきた言葉が鋭利な刃物のように僕の心臓を貫く。 今ここが死ぬ時なのではないかと思うほど胸が痛い。 彼女は僕を殺そうとしているのだろうか。 「友達が、……石田くんのこと、好きなの」 微かに震える声がじわりじわりと耳に入ってくる。 だけど私、と合わさった目は今までに見たことがないほど困りきっていた。 「私も……竜くんのことが好きなの……」 心臓がドクンと跳ね上がる。 刺された刃物が飲み込まれたような気させした。 目の前にある目からは涙が伝うのがはっきりと見えて、自分の目が見開かれているのがわかる。 もうどれくらいぶりに聞いたのかわからない彼女の口から出た彼女だけの自分の愛称。 欲していたというのに、こんなにも取り乱すなんて思いもしなかった。 気付けば彼女の掴んでいた腕なんて払いのけ、頭を引き寄せて深く口付ける。 少しでも抵抗してくれれば良かったというのに、彼女は真逆にも僕の首へと腕を回した。 今までの距離を埋めるかのような口付けは何度も角度を変えてはお互いの鼻を掠める。 時折耳に入る小さなリップ音と、彼女の口から出る必死な息継ぎの声が僕の理性を欠いていった。 しがみつかれた首がギュッと締め付けられるのがわかり、後頭部に宛がっていた手から力を抜けばゆっくりと唇が離れる。 頬には涙の跡が見えて、それに沿って流れる滴を親指で拭えば彼女の震える口が開いた。 「ずっとずっと好きだった、」 だけど友達の気持ちを知って距離をとろうと思った、なんて、どれだけお人好しなのだろう。 その前に僕の気持ちは完全無視だったのかと思うと僅かに腹が立ったが、切なそうに僕の愛称を口にする彼女を見ると煮えくり返りそうになる気持ちも自然と落ち着いた。 彼女に殺されかけた僕は、死ぬ時の痛みにも耐えられる気がする。 (……眼鏡のこと怒ってないの?) (あんな物いくらでも作れる) END (プリーズ ブラウザバック) |