しかしどうしてこうもまあ暇なんだろうとアスカはぼんやり空を見ながら思った。
授業はとっくに終わってしまって、クラスメイト達もとっくに帰宅していたので教室にはもう二人しかいない。明日は休日だというのに何の予定もないし、今日だって家に帰ってテレビを見るくらいしかする事がないのだ。
使徒が襲来していた頃はこんな事なかったのに、アスカは憎々し気に思い返す。あの頃はシンクロテストだの調整だのと色々やる事が山積みで、暇なんて感じる余裕だなんてなかった。
あまりに平和すぎる毎日は退屈を通り越して恐怖すら感じる。何もしなくていい、というのには生い立ち上慣れていないのだ。

使徒さえいれば、とアスカは思う。
だから、アスカ以外に教室に残るもう一人――何やら自分の机で忙しそうにシャープペンを動かすカヲルに話し掛けた。使徒である少年に。

「あんたさあ、使徒なら使徒らしくネルフ本部に侵攻してくんない?」

文字を書く音がぴたりと止まる。
ややあってどうやらアスカの言葉が間違いなく自分に向けられたものだと理解したらしいカヲルは、また熱心に手を動かしながら顔も上げずに応えた。

「僕に言ってるんだよね?」
「あんた以外に残ってる使徒なんていないじゃない。別に人類滅ぼせって言ってる訳じゃないわ、適当に暴れて適当に私と戦って負けてくれればいいから」
「つまりそれは、特に何の目的もなく突然の暴挙を働いた挙げ句無様に降伏しろと、そういう事かな?」
「そう。だって使徒なんだし、それが使徒の役割でしょ」

いや、別に他の使徒だって何の目的もなく襲ってきた訳じゃないし、殲滅される為に戦った訳じゃないだろう。
カヲルはそう思ったけれどあえて言う事はしなかった。アスカにそんな理屈が通用するとは思えない。彼女にとって重要なのは自分がエヴァに乗って戦っているという事実だけで、使徒の目的――或いは人類を守るだとかそういう事情すらどうだっていいのだろう。

「そんな無意味な事をする気はないよ。結果だって目に見えているしね」

たまに話し掛けてきたと思えばカヲルには到底理解できないような突飛な事を言いだすのがアスカだった。真剣に話し合う必要なんてないのももうわかっているのだ。
カヲルにとってはそんな起こす気もない反乱の話よりも、教師から与えられた大量の課題を消化する事の方がよっぽど重要だったので気の入らない返事を曖昧に返すに留める。
そんな反応がアスカは不満らしい。咎めるような声で更に重ねた。

「なんでよ」
「なんでって……殲滅されるじゃないか」
「嫌なの?」
「………君はどうしてそんな普通の事をさも意外そうに聞くんだろう。嫌に決まってるさ」

この子はカヲルが命を散らそうがどうだっていいと考えているらしいと半分呆れてため息を吐く。そりゃあ折角生きているんだから、無駄に命を捨てたくなんてないだろうに。

「君は一体僕をなんだと思ってるのかな。君ならどうだい?特に意味もなく街を破壊した末によくわからないまま殲滅されたいと思うかい?」
「そんなのわかんないわよ。だって私使徒じゃないし」
「………そうだったね。とにかく僕は確かに使徒だけど、無益な戦いをするのは昔から良く思えないんだ。しかしなんでまた突然そんな事を?」

書いても書いても減らないプリントに眉を寄せながら聞く。どうやらまだまだ時間がかかりそうだった。しかしなんとしてでも今日中になんとか提出までこぎつけたいカヲルは、諦めている暇すら惜しいとでもいうようにただ黙々と空白を埋めていく。

「だって暇なんだもん」

だというのに、アスカがそう言ったのでまた数秒手が動くのを止めた。
あんまりにも酷い理由だったからだ。

「……暇?君の暇を潰すためだけに僕に殲滅されろと言うのかい?君は」
「退屈なんだから仕方ないじゃない。使徒との戦闘でもあればこうやってぼーっとするだけの放課後を過ごさなくたっていいのに」
「物凄い極論だね。…それに前にも言ったけど、僕自身は他の使徒と違って直接的な攻撃手段を持たないんだ。つまりネルフを襲撃するなら君の弐号機を使うしかない。もし僕が本部に侵攻しようと弐号機を奪われてしまっている君では戦闘に参加する事は出来ないから、その案は暇潰しの上策とは言えないと思うよ」
「……げ。そうだった」

あーあ、とさも残念そうにため息を吐きながらも本当は、そんな事情がなくてもカヲルに使徒としての役割を期待なんて出来ない事だってわかっていた。

何せ今彼が必死に手を動かし続けているのは、明日からの休日を快適に過ごすためらしいのだ。シンジやトウジが泊まりにくる予定があるのだと言っていた。宿題を先に終わらせてしまって、何の憂いもない状態で友人達との休日を謳歌するつもりらしい。
二日かけて終わらせるつもりで作られた課題を、この放課後だけで纏めて終わらせようとしている。そんなちょっとした狡い手段を使おうとする辺り、どうにもカヲルは人間社会に馴染みすぎている気がした。これじゃ使徒どころかどこにでもいる学生の子どもでしかない。
あまりにも平和ボケしているようにしか見えない。使徒が休日のために頑張って課題を消費するだなんて、世の中は一体どうなっちゃってるんだろうとアスカは呆れた。

「私がこんなに暇なのに、使徒のあんたが忙しそうにしてるなんて理不尽」
「僕にとってはその言葉こそが理不尽でしかないけどね。……ああ、そんな事よりも暇なら何か楽しい話をして気を紛らわせてくれないかな。何度も同じ文を書いていたらゲシュタルト崩壊を起こしたのか、自分が何を書いているのかわからなくなってきた」
「……それ、何だっけ。古文の書き取り?」
「そうだよ。外国から来たなら早く漢字に慣れるようにと教師が大量の課題を出してくれたものだから……大丈夫だと言ったのに。自分の仕事に熱心なのは立派だけど、熱心すぎるのは問題だと思うんだ」

困った顔をしながらもやっぱりカリカリと文字を書き付ける音は止まない。教師は知るよしもないだろうが、カヲルにとってその手の心配が無い事はアスカも知っていた。
彼は確かに生まれこそ外国ではあるものの、元々ネルフに入り込みシンジに接触する事を目的として送り込まれたのだ。最初から他の国の言葉よりも日本に馴染むように教育(という言葉が正しいのか定かではないが)されたそうで、漢字だって平仮名だって簡単に使いこなせる。
アスカが日本に来た時相当に苦労していたのを知っていた教師がカヲルも同じだろうと気を回した結果が大量の課題という訳だ。その気遣いはかなり空回りしているとしか言えないだろう。

「……使徒のために話題を提供するのが私に与えられた唯一の仕事とか。もうほんとに狂ってるとしか思えないわ」
「使徒を目の前に直接本部に侵攻しろと言いだす君も相当だと思うよ。まあ、平和だという証拠だね」
「宿題に必死になってる使徒なんか使徒じゃないわよ。あんた今の自分の姿客観的に見てみなさい、かなり間抜けだから」
「返す言葉もないね。……しかし終わらないな、君が帰ってしまったら一人でこの作業を延々とこなさなければならないと思うと気分が滅入ってくる」
「そうそう、私が暇なのに感謝すべきよあんた」
「そうだね、ありがとう」

先程暇潰しに殲滅されろと言われた事も忘れて素直にお礼を言えばアスカは今日一番呆れた顔をしたけれど、目の前のプリントに夢中なカヲルは気付きもしなかった。

使徒とそれを殲滅する事が使命だった筈のエヴァパイロットが二人きりで言葉を交わす。そもそもこんな光景こそが一番異常で、平和ボケの象徴に違いない。
平和は退屈。けれどそう感じるのは幸せな事なのだろう。

難しい表情でペンを走らせるカヲルのために、アスカはどんな話をしようかと考えた。




(あんた、悩みとかってある?)
(最近の悩みは、一人暮らしだと中々ケチャップが減らない事かな。お徳用サイズを買ってしまったばかりに賞味期限に怯える毎日を過ごしているよ)
(………あんたやっぱり使徒じゃないわよもう)



***

007.午後3時

平和すぎる日常のひとこま。

160218.

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