あらがうもの

□逆転時計
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「れ、レギュラス様は薬を飲む前に、クリーチャーめに命令なさいました。薬を飲んでいる最中の自分の命令に、従ってはならないと──そして、水盆が空になったら、ロケットを取り替えて──自分を置いて1人で去れと──」


すすり泣きながら発せられたクリーチャーの言葉を聞いて、フィービーは呼吸が止まりそうになった。

過去のレギュラスは、ここで自らの人生を終わらせるつもりだったのか。

裏切りが発覚すれば、例のあの人はレギュラスを生かしておかない。さらに見せしめとして、彼の家族を皆殺しにしようとする。
それを見越した過去の彼は、秘密を抱えたままこの世から去ることで、身内を全員守ろうとしたんだ。

悲壮なまでの覚悟を固めるに至るまで、血を吐くような葛藤があったのだと思う。その上、毒薬を飲んで生き地獄を味わうなんて。
胸が潰れそうな思いがしたフィービーは、遠くから響いた鈍い音で我に返った。

嗚咽するクリーチャーが主人の命令に従えない自分を罰するため、体のどこかしらを岩場に打ちつけているようだ。

呻き声と物音から、痛ましい光景が伝わってくる。耐え切れなくなったフィービーは、前進を再開したレギュラスに呼びかけた。


「レギュラス、お願い、早く助けてあげて」

「まだ助けに入れません。聞くのが嫌なら、耳を塞いでいなさい」


怖いくらい冷静に言い返しながら、レギュラスは岩壁に拳を打ちつけた。

彼にとって、家族同然の存在であるクリーチャーが嘆き苦しむ様は、身を裂くように辛いはずだ。

フィービーは涙で視界が滲んだけど、耳を塞ごうとはしなかった。
周囲には例のあの人の罠が潜んでいるのに、聴覚を遮断するために両手を使うのは危険極まりない。


「奥様──旦那様──申し訳ございません──クリーチャーがついていながら、レギュラス様をお守りできませんでした──ああ、レギュラス様──!」


クリーチャーの悲鳴と同時に、5〜6メートル先の暗い水の中から、何か大きくて青白いものが噴き出した。

フィービーが目を凝らすと、緑がかった不可思議な光に照らされた湖面から、白い手や頭がいくつも突き出ているのが見えた。

あれが──闇の魔法使いの命令通りのことをするように、魔法をかけられて動きを取り戻した屍──亡者か。

亡者に関する知識は頭に入っているけど、実際にそれが眼下に広がる黒い湖に溢れていると思うと、ぞっとしてしまう。


「クリーチャー、来てくれ!」


フィービーの近くにいるレギュラスが声を張り上げて呼ぶと、少し間を置いてから、バチンと大きな音がした。

狭い岩縁に姿を現したのは、清潔なタオルを腰布のように腹に巻いた、年老いた屋敷しもべ妖精だった。
コウモリに似た大耳から、ふわふわした白髪が生えていた。全身の皮膚がだぶついており、しわが年輪のように刻まれた額にはあざが広がっている。


「まさか……そんな……レギュラス様? クリーチャーは幻覚を見ているのでしょうか? それとも──」


震え声を出したクリーチャーは、血走った目をこれでもかというほど見開いた。


「僕は未来からきた、レギュラス・アークタルス・ブラックだ。過去の僕は水盆の薬を飲む前に、君にこう命じたはずだ。母上には決して、自分のしたことを言うな。そして、最初のロケットを破壊せよと──」


それを聞いて、本人だと認識したのか。クリーチャーは鼻水が光る肉付きのいい鼻を、足元の岩に押しつけるようにして、深々とお辞儀をする。


「レギュラス様、どうかクリーチャーめに命じてください。あちらで亡者に捕まっているレギュラス様を助けるように、と──」

「わかっているよ。薬を飲む前の僕が出した命令は取り消す。僕とこの子を──フィービー・ディゴリーを、水盆のある小島まで連れていってほしい」


そのとき、クリーチャーは初めてフィービーの存在に気づいたようだ。

老いた屋敷しもべ妖精は怪しむような目を向けてきたが、命の危機に陥っている主人を救うほうを優先させたらしい。

レギュラスに腕をつかまれた途端、フィービーは体が伸びるような不思議な感覚に襲われた。
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