あらがうもの
□逆転時計
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「お疲れさまでした、フィービー」
人の姿に戻ったレギュラスが杖を振ると、フィービーの頭部を覆っていた泡が消えた。
さらに彼は熱風呪文で、フィービーの衣類や靴を乾かしてくれた。消臭呪文もかけてくれたらしく、全身から漂っていた潮臭さがなくなった。
なんだか、やけに親切だ。年下の女の子を舟代わりにしたことを、後ろめたく思っているのだろうか。フィービーは微妙に思ったけど、お礼は言っておいた。
レギュラスは奇妙なリュックサックを巾着袋にしまってから、灯りを点した杖を高く掲げて洞穴の岩壁を調べはじめた。
ほどなくして立ち止まった彼は、マントの内ポケットから銀の小刀を取り出し、迷わず自分の左手に傷をつけた。
そういえば、映画で洞窟に入ったダンブルドア校長も同じことをしていた。通行料を払わなくてはいけない、というようなことを言っていたような。
岩の表面にレギュラスが血を付着させると、岩肌に銀色に燃えるアーチ型の輪郭が現れた。輪郭の中の血痕のついた岩がさっと消え、真っ暗闇が口を開けた。
「この先にある湖の中には、分霊箱を護衛するために闇の帝王が配置した亡者が潜んでいます。身体の一部が水に触れると連中は襲いかかってきますので、くれぐれも注意してください」
レギュラスは左手の傷を杖先でなぞって治癒してから、フィービーをまっすぐ見据えて忠告してきた。
「それと、私が指示したとき以外、私のそばから離れないでくださいね。勝手に動き回られると、フィービーを護れなくなりますから」
ごくりと唾をのんだフィービーは、「わかった」と答えた。
杖を持ったレギュラスの後に続いて、アーチ型の入口を通り抜ける。ビロードのような暗闇に足を踏み入れたとき。
「もうすぐです──レギュラス様──あともう少しで、水盆が空になります──」
食用ガエルのような、かすれた太い声が遠くのほうから聞こえた。
「僕の家族を殺さないでください。どうか頼みます。お願いです。やめてくれ、ベラトリックス。悪いのは僕だ。僕を殺して……」
ぎょっとしたフィービーは足をとめた。過去のレギュラスは、1人でここに来たのではなかったのか。
考えてみれば、この洞窟は例のあの人とクリーチャーしか知らない。
過去のレギュラスは、例のあの人が何かを隠した場所に連れていってくれと、クリーチャーに頼んだのだろう。
聞こえてきた声から察するに、分霊箱が隠されている水盆に満たされた毒薬を、レギュラスが飲んでいるようだ。
映画のダンブルドア校長の推察通りなら、分霊箱を盗ろうとする者を阻むために、例のあの人が水盆に用意した毒薬を飲むと、麻痺して己を見失ってしまうという。
クリーチャーはレギュラスに命じられて、主人が毒薬を飲み干す手伝いをしているのだろう。忠実な屋敷しもべ妖精にとって、自分が毒薬を飲むより苦しい思いをするかもしれない。
目の前にいるレギュラスは動じた素振りを見せず、巨大な黒い湖を囲む狭い岩縁を歩きはじめた。
洞穴に反響する、涙声と苦悶の叫びは段々大きくなる。
いけない。前進するほうに集中しなくては。足を滑らせて水に入ってしまったら、彼に余計な手間を取らせてしまう。
「もう嫌だ! これ以上はもう……嫌だ、死にたい。お願いだ、クリーチャー。僕を殺してくれ」
毒薬を飲んでいるせいで、過去のレギュラスは錯乱している。
頭では理解しても、彼が弱々しく虚ろな声で殺してほしいと懇願するのを聞くのは、腸を捩じ切られるような思いがした。
迷わず進んでいたレギュラスは、初めて立ち止まった。
死を望むほど苦しんでいる主人を目の当たりにして、クリーチャーがわっと泣き出したからだろう。