波紋の音

□第三話
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 轟音とともに巨大な土煙があがった。屋敷が立ち並ぶ大通りは一瞬にして白くなる。その中から勢いよろしく二つの影が飛び出した。
「なぜ逃げるんだ!」
「小兎丸がどうこうできる相手じゃないだろ!?」
 鯰尾は小兎丸と共に、真っ直ぐに歴史修正主義者から逃げていた。手を引かれている小兎丸は唇を噛む。敵を背に逃げ出すことは武士にとって最大の屈辱だった。しかし、鯰尾が言うように打刀である小兎丸が立ち向かっても勝機はないに等しい。次から次へと、どこからともなく出現する彼らに小兎丸を庇いながら鯰尾一人で戦うというのも難しい話であった。
「大きいくせに足速いなもう!」
 象のように大きな彼らは、その大股を最大限に活かしているうえに回転も速く、あっという間に逃げる鯰尾たちの後ろへ迫っていた。
「………おい」
「?」
 今まで黙って鯰尾に手を引かれるまま走っていた小兎丸が言う。
「先に行け」
「………は…?」
 瞬間、強い力で手を振りほどかれ痛みが走る。信じられない行動に目を丸くすると、小兎丸の姿勢の良い後ろ姿が見えた。
「どういうこと……先に行けって…?」
 鞘から静かに引き抜かれた白刃は月明りに照らされ、美しい刃紋を浮かび上がらせた。
「足の速いお前だけなら逃げ切れる。行け」
 痛むのは手首のはずなのに、なぜか心臓が痛かった。走りすぎたせいだろうか。
「な、何言ってんだよ小兎丸……一緒に逃げようよ…」
「そうしてもすぐに追いつかれる。それよりは不自由な俺が残って少しでも時間を稼いでいる間にお前が兄さんたちを呼んできた方が良い」
 先頭を走っていた紅い太刀がゆらりと刃を振り上げる。
「やだよ!小兎丸を一人で戦わせるなんて!死んじゃうかもしれないだろ!?そんなの絶対やだ!俺も残る!」
「黙れ!!」
 町中に響き渡ったかのように思えた小兎丸の声は、鯰尾の心を強く震わせた。
 紅い炎を纏った刃が月を掲げている。
「兄さんたちを呼んでくる、ただそれだけのこともできないというのか。見損なったぞ」
「!!」
 振り下ろされた白刃は小兎丸の身長と同等に見えた。夜目のきかない小兎丸は、月明りに反射する鈍い光と空を斬る音だけを頼りに攻撃を避け、受け流す。しかし、敵襲から逃げいているだけではいずれ体力の限界を迎え、最悪の結末を迎えるだろう。かといって、敵の居場所を確実に捉えることのできない小兎丸に反撃することは困難だった。
 鯰尾は踵を返す。
「……み…そこ、なった……」
 小兎丸の一言と突き刺すような視線が容赦なく心臓を貫いていた。とぼとぼと戦場から離れる。
「俺、嫌われた…?」
 足を止めれば一つの疑惑が浮かんで必死に振り払った。どくどくと激しく流動する血液が心臓を圧迫している。ひどく苦しかった。
 小さなうめき声が聞こえた。
「小兎丸…!」
 振り返れば、片膝をついている小兎丸の後ろ姿が見える。刀を持った左腕は力なく垂れ、右手でその二の腕を強く抑え込んでいた。穢れを知らない白の衣が鮮血に染まっていく。
 鯰尾は、己の中で何かがあっさりと切れる音を聞いた。


「ッ……」
 片膝をついた次の瞬間、頭上の空気を斬る鋭い音がしたかと思い見上げれば、どういうわけかそこには何者もいやしなかった。決して夜目がきかないから敵の姿が見えない訳ではない。確かに、そこにあるのは闇だけだったのだ。
「小兎丸」
「!」
 驚いたのは、すぐ傍らに鯰尾がいたことだ。すでに薬研たちに敵が現れたことを伝えにいったのだとばかり思っていた小兎丸は悲しそうな顔をしてしゃがみこんでいる鯰尾を見下ろした。
「応急処置だけど…」
 そう言って懐から取り出した手ぬぐいを小兎丸の血が滴る二の腕に巻き付ける。止血するために強く巻き付ければ苦しそうな声が漏れ聞こえた。
「……なぜそんな顔をしている」
 尋ねはするが、心当たりはあった。
「俺が厳しく言ったからか」
 見損なった、と言った後に見た鯰尾の顔はひどいものだった。この世のすべてのものに捨てられた孤独者のような悲しい顔をしていたのだ。
 しかし、鯰尾は首を横に振る。
「小兎丸に怪我させないようにしようと思ってた」
「お前のせいじゃない。己の不甲斐なさ故の…」
「いーや、俺のせい!あ〜小兎丸の命令だからって、ちょっとでも悩んだ俺がいけなかったんだ〜!」
 髪をかき乱す鯰尾。小兎丸は、呆けた面で乱れていく鯰尾の細い髪を見つめていた。
 暫くして、落ち着いたらしい鯰尾は、ふいに小兎丸を見上げて目を細める。
「………なんだ」
「好き」
「は」
「やっぱり俺、小兎丸が好き!小兎丸に嫌われてても小兎丸が好き!」
「く、くっつくな!」
「小兎丸が死ななくて良かった〜〜!!」
「離れろ!気色が悪い!」
 一度抱き着いてきた鯰尾を引きはがすことは困難を極める。この時だけ、なぜか圧倒的な力の差を感じる小兎丸だった。
「外でそういうことをされちゃ困るんだがな…」
「!」
 いつの間にか、目の前に呆れた顔の薬研が立っていた。その後ろには、今剣がいる。
「なまずおさまと小兎丸さまはほんとうになかよしですよねー」
「違います!こいつが勝手に…!」
「そうは言うけど本当は小兎丸も嬉しいんだよ!ねー?」
「…………」
「え?本当に嫌なの?そうなの?」
 小兎丸の何とも言えない顔を見た鯰尾は流石に正座をすることにした。それでも小兎丸の傍からは離れない。
「ところで、やっこさんはどこへ消えたんだ?急に騒がしくなったもんだから慌てて来てみたんだがいるのは鯰にいと小兎丸だけだったんだが」
「ぼくもやげんといっしょです。ばくおんがしたからはなびがうちあがったのかとおもったらふたりがあつくだきしめあっていました」
 二人の疑問に答える者はいない。しいて言うなら、背後に桜の花びらが見える鯰尾が答えだった。
「…………まさか鯰にいが全部やったのか?」
 鯰尾は小兎丸に褒美として抱擁をねだった。


「ええ?!鯰尾くんが全部倒しちゃったの?!っていうかごめんね!ほんとごめんね!!」
 四人が帰還し玄関先で見たのは土下座する主の姿だった。
「そのようなことをされては困ります!」
 床にへばりつく審神者を必死に起き上がらせようとする小兎丸がいれば、
「このメンツで俺っちがどんだけ苦労したと思う?!悪いと思ってるんなら今日の風呂は俺っちと入ってくれ!」
 毎日交代制の審神者とお風呂に入れる権を強引につかもうとする薬研もいる。
「ねえ、小兎丸。まだ返事聞いてないんだけど?」
「いわとーしにちょうちょをみせてきます!」
 もちろん、告白の返事をもじもじしながら待っている鯰尾と少し潰れている蝶々を持って廊下を駆けていく今剣もいた。
「いや、もう本当に申し訳ない…皆にはお世話になりっぱなしだね…数十年後には介護までしてもらってそうだよ……はは」
 若いブラックジョークに鯰尾以外が引きつった笑みを浮かべる。
「あ、そうだ!小兎丸くん、薬研くん、鯰尾くんに今剣くんはとっかいっちゃったか……とりあえず夜戦を頑張ってくれた皆にご飯を作ったんだ!」
「マジかよ大将…!」
「光栄です…!」
「それ食べられるんですか?」
 主の炊き立ての白米のような温かな心に触れて大喜びする二人と他一人をよそに、準備がしてあるらしい食卓へ走り出した審神者は足を滑らせて飛び上がると廊下を大きく外れて庭へ落下した。
 皆が食卓へ入ると、その輝いた瞳は死んだ魚の目のようになる。誰もが予想してはいたが、気が付かなかったことにしていたのだ。
「……………ごめん……」
 うなだれる審神者は、膨張に膨張を重ねて容器から惜しみなくあふれ出た麺に似たところがあった。
「僕、料理するのすごく時間がかかるから早目にとりかかったんだ……そうしたらこのザマだよ………こんな簡単な料理すらできないなんて……情けないにもほどがあるね…」
「「「…………」」」
 カップ麺って湯わかすだけじゃね?料理っていうのかな?という当然の疑問が浮かんだが三人は吐き気とともにその言葉を飲み込んだ。
「……そ、そんな落ち込むなよ大将!誰にでも失敗はあるってもんだ!」
 そう言って、薬研はぶよぶよに膨れた麺の下から箸をとった。
「薬研くん…?」
「に、兄さん、何を…?」
 薬研は鬼気迫る表情で箸を握り食卓の上に並んでいる溢れたカップ麺を見た。
「嬉しいぜ、大将。俺っちたちが外で頑張ってる時に大将は台所で頑張ってくれてたんだな………それに俺っち、麺は柔らかい方が好きなんだ」
「!」
「に、兄さん…!」
 薬研は容器をつかみ取り、握りしめた箸で介護食のような柔らかい麺を口にかき込んだ。掃除機に吸い込まれていくような光景に小兎丸と鯰尾は文字通り言葉を失った。まさか、あの伸びに伸びてもはや箸ではさんで食べることのできないラーメンをこうも大胆に、一本も零さず、作るまでの所要時間に満たない速さで食べ終えるとは。
 薬研が肩で息をしながら机の上に置いた容器の中は汁はもちろん麺もかやくも、一欠けらも残っていなかった。
「美味かったぜ、大将」
 白い歯を見せて笑った薬研は「風呂入るとき教えてくれよな」と言って出て行った。
「薬研くん…」
 小さいのに弟たちの面倒を見るしっかり者の薬研。自分のことを大将と慕ってくれる薬研。どこまでも懐の深い薬研―――。
 審神者は空になった容器と残っている3つの容器をおぼんにのせてキッチンへ運んでいく。
「主?」
「それ、どうするんですか?」
 その行動を不思議そうに見ている小兎丸と鯰尾を振り返り、審神者は辛そうに微笑んだ。
「薬研くんは美味いって言ってくれてたけど、無理してるのがわかったんだ。もしかしなくても、このカップ麺は不味い。って、見たらわかるよね」
 何度もお湯をひっくり返し、手にはたくさんやけどを負った。袖で隠していたつもりだったが薬研には見えていたのだろう。
「光忠くんに言って何か作ってもらおう。彼はまだ起きてるだろうからね。だからこれは…」
「待ってください!」
「!」
「小兎丸…?」
 傾けられたおぼんの上から残飯処理機に滑り落ちていくカップ麺たちを救ったのは小兎丸だった。
「主のご意思に従わないこと、お許しください。それでも俺は、この麺が食べたい」
「え…?」
 掴むことさえ容易でない辛うじてその原型をとどめている麺を小兎丸は美しい箸の扱い方で食した。優雅に食事する様は、見ている者を魅了する。それが例え不美味のものであろうと、「どんなに美味いものを食べているのだろうか」と想像させてしまうのだ。
 小兎丸は、しきりを跨いだ。
「あ、あとは自室で食べますので…」
「無理してた!!」
「限界だったんだ!!」
 口元を抑えて言う小兎丸の顔は青い。それでも頑としてカップ麺を投げ捨てようとはしなかった。小兎丸にとっては主が自分のために作ってくれたこの夜食こそ嗜好品だったのだ。
「捨てな小兎丸!体壊すよ?!」
「馬鹿言え!主がわざわざ俺たちのために作っウ」
「小兎丸ーーーー!!!!」
 気を失った小兎丸は結果的に麺を捨てることとなった。
「ねぇ主これどういうことですか!カップ麺ですよね!?これカップ麺なんですよね?!」
「う、うん!フタを破ってかやくを入れてお湯を入れて……カップ麺だよ!」
「じゃあなんで小兎丸は気絶してるんですか!?」
「な、なんでだろう………ハッ!もしかして!」
「もしかして?!」
 後日、カップ麺にやばみのある薬草が混入していたことが分かった。審神者いわく、「さしみにのっているたんぽぽのように飾り付けをしたくて庭から綺麗な花を摘んできた」とのことだった。
 ちなみに事件が収束しかけた翌朝、脱衣所の前で薬研が倒れているのが発見されている。彼より早く目を覚ました小兎丸は、「薬研兄さんはすごい。俺も兄さんのようにより一層精神と肉体を鍛えて毒草のひとつやふたつ入ったカップ麺を一気に完食できるようになりたい」と語った。

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