波紋の音

□第一話
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 真っ青な空の向こうには果てしない「宇宙」というものが広がっているという。人間は、その地へ足を踏み入れることが出来るらしいのだけれど、我ら刀剣は、あの弾力のある菓子のような入道雲でさえ超えてゆけはしない。
 本丸の庭には、背の高い向日葵が植わっていた。
「鯰尾」
 審神者に代わって行っていた執務がひと段落ついた小兎丸は、縁側に腰を下ろして太陽と顔を合わせるように光合成をしている向日葵を眺めていた。
「おい。寝ているのか」
 暫く、締め切った広間から聞こえる仲間たちの声を聞きながら夏の風物を堪能していたのだが、どこからともなく現れた鯰尾が膝の上に頭をのせてきてそれきり動かなくなった。
 なぜわざわざ「冷房」の効いた夏場の隠れ家から出てきて自分の傍に来たのか。小兎丸には分かっていた。だからこそ、密着したところから暑さが増していくことを耐えねばならなかった。しかし、限界を超えてまで我慢しようとは思わない。
「どけ。暑い」
「ぐえッ!」
 首を絞められた鶏のような声をあげた鯰尾は、その丸い頭を撓る床板に打ち付けた。小兎丸の匂いと中低音の声にまどろんでいた最中の出来事だ。
 鯰尾は、一瞬のうちに眠気を吹き飛ばした張本人の涼しげな横顔を睨みつける。
「落とすことなくない!?」
 柔らかな素材で出来ている床とはいえ、無防備な状態で打った後頭部の痛みは相当なものだった。
 小兎丸は、喚く鯰尾に迷惑そうな視線を向ける。神々しくさえ思う夏の眩しい庭から陰った廊下への視線誘導に暗順応が起こった。やがて、はっきりと見えるようになった鯰尾の顔はやはり憤っているものだった。
「このいけずー!仕事が終わるの、ずっと待ってたのに!!」
「うぐッ?!」
 まるで約束を破った恋人に言うかのように叫んだ鯰尾は、正面から小兎丸に抱き着き押し倒してしまう。次は小兎丸が後頭部を打ち付ける番であった。
「このッ……暑いと言っているだろう!!」
「暑くない!」
「嘘つけ!汗くさいぞ!」
「んなッ?!ううううるさいッ!小兎丸だって汗くさいわ!!」
「誰のせいだと思ってるんだ!」
 ひょんなことから始まった喧嘩は、抱き合ったまま本丸中の廊下を転げまわる大乱闘になっていた。  
 響く怒号と軋む屋敷に、なんだなんだと冷却された部屋の襖が開いて様々な顔が覗く。
「やっぱ小兎丸と鯰尾だ」
「珍しいね。喧嘩なんて」
「いつもは小兎丸が我慢してるからねー」
 廊下の先で鯰尾を引きはがそうとする小兎丸と決して離れまいとしがみつく鯰尾を見てつぶやくのは、加州清光と大和守安定。
「誰でも暑いとイライラしちゃうよね」
「小兎丸は常にイライラしてるでしょ。まあ鯰尾にだけだけど……うわ、爪紅はげてる!」
 常に美しくしていなければ捨てられるという固定観念を持っている清光は、さっさと広間に戻り鏡台の前に行ってしまった。
「爪紅塗るのに鏡なんていらないだろ」
 冷めた視線を送る安定は、自分の後ろに続いている不思議そうな顔をした短刀たちの列を見て僅かに驚く。どうやら先からの騒ぎが気になっているらしい。
「鯰尾にいと小兎丸、喧嘩してるの?」
 大きな青い瞳をきょとんとさせ首をかしげる乱藤四郎は、安定の頭の上から顔を廊下に出して様子を窺った。むっとした外の熱気に「うわ」と声が出る。
 二人の乱闘は続いていた。しかし、この気温だ。動きは鈍くなっており息もだいぶ上がっているようだった。
「あれでは熱中症になってしまうのではないですか…?」
 同じく広間から顔を覗かせている前田藤四郎が不安げに言う。その後ろでは五虎退が一匹の虎を抱きしめて目に涙をためていた。
「い、いち兄を呼んだ方がいいんじゃ…」
「残念ですが…いち兄は遠征で不在です」
「あぅ…そんなぁ…」
 頼りにしている兄、一期一振は今朝早くから遠征に出ている。五虎退は、不安に耐え切れずついに泣き始めてしまった。それを見た安定は、慌てつつもつられて泣きそうになっている前田を五虎退と一緒に宥め、中へ戻るよう促す。ついでに未だ彷徨う亡者のようにゆっくりと喧嘩している二人を眺めている乱を引っ込ませて、いよいよ仲裁に入ろうとした時だった。
「あ、骨喰くん」
 目の前を骨喰藤四郎が通り過ぎる。その汗ひとつかいていない顔は真っ直ぐに廊下の先でくたばっている二人へ向けられていた。
「…………清光ー、お前今日炊事当番だろ。いい加減、爪紅とりなよ」
 二人のことは骨喰に任せることにして、これから夕餉を作らなければならない清光から爪紅を取り上げることにした安定だった。


 骨喰が着いた頃には、鯰尾の勝利が決まっていた。二人とも汗だくで、特に鯰尾に抱き着かれたまま下敷きにされている小兎丸の顔色は赤を通り越して青いものになっている。
 骨喰は、熱中症の疑いを持っている二人を見て簡潔に述べた。
「湯浴みをしてこい」
 と言ってはみたものの、暑さと喧嘩で体力を消耗した二人は動けないらしい。仕方なく、一人ずつ風呂場へ運ぼうと鯰尾に手をかけ起き上がらせようとするが案の定、小兎丸から離れない。
「兄弟、このままだと小兎丸が死ぬぞ」
「………小兎丸と死ぬ……」
「………」
 一体いつから鯰尾は、こんなにも小兎丸に執着するようになってしまったのか。
「(……最初からか)」
 小兎丸が本丸に来た初日からべったりだった鯰尾のことを思い出した骨喰は、眉間をもんだ。
 こうなれば小兎丸に頼るしかあるまい。
「小兎丸、動けるか」
 いくらか肩を叩いてやると、苦しそうにきつく閉じられていた目が薄く開いて煌く宝石のような瞳が覗いた。
「………兄さん………い」
「?」
 唇がかすかに震えている。その色は、心なしか紫がかって見えた。小兎丸は、震える唇を引き結んでさらには手でおさえるとくぐもった声を発した。
「……たらいを……」
「たらい?」
 額に玉のような汗が滲んでいた。そして、嗚咽のような声が漏れ聞こえた時いよいよ骨喰は鯰尾を本気で引きはがしにかかる。平手打ちも厭わない。
「兄弟!いい加減にしろ!」
「痛ッ!?」
「小兎丸は熱中症だ!早く処置をとらないと死ぬぞ!」
「えっ…」
 ただならない様相で言う骨喰を見てようやく起き上がった鯰尾は、小兎丸の苦しそうな顔を見た瞬間血の気が引いていくのが分かった。
「小兎丸……小兎丸!」
「なッ…!」
 離れたと思ったのは束の間、鯰尾は再び小兎丸に抱き着いて離れなくなってしまった。
「兄弟、何をしてる…!」
 このままでは、悪化してしまうどころか取り返しのつかないことになってしまう。骨喰は、大泣きして小兎丸にしがみつく鯰尾を引きはがそうと引っ張るがびくともしない。同じ脇差、同じ練度にも関わらず果てしない腕力の差を感じ絶望しかけた、その時、思わぬ助け舟が現れた。
 重い音をたてて酒瓶が置かれる。
「アタシに任せな!」
 腕まくりをしながら言うのは次郎太刀だった。露わになった二の腕の筋肉がたくましい。
「全く、コイツには困ったもんだねぇ。小兎丸は本丸一の苦労人さ…っと」
 小兎丸の首と膝の下に手を差し込んで軽い掛け声をあげた次郎はいともたやすく小兎丸を持ち上げた。さらに驚くべきは、小兎丸の上に鯰尾も乗っているということだ。
 骨喰は、鼻歌交じりに廊下を歩いていく次郎の後ろ姿を呆然と見つめていた。


 小兎丸が運び込まれたのは本人の寝室だった。室内には必要最低限のものしか置かれていない。小兎丸は、中心に敷かれた布団に眠っていた。その傍らには、鯰尾をはじめ骨喰、次郎がいる。
「それで、アンタはどうなんだい?気分悪いとか頭痛いとかないの?」
 小兎丸の布団に潜り込もうとする鯰尾の髪を引っ張りながら一応尋ねる。それさえも無駄と思ってしまうほどに彼はいつも通りであるが。
 鯰尾は、元の場所に座りなおして次郎から自分の髪の毛を取り上げた。
「俺はなんともないですよ。まあ、しいて言うなら気分が優れないので小兎丸と一緒に寝たいですね」
「時々アンタが本当に教育係なのか疑問に思うよ」
 呆れてため息しか出ない次郎は、大きな酒瓶を煽って「あんま負担かけるんじゃないよ」と付け加えると広間へ戻っていった。
 次郎の足音が遠ざかり無数のセミが我こそはと鳴く音しか聞こえなくなる。鯰尾は、目を閉じている小兎丸の頬にそっと触れた。
「小兎丸…」
「兄弟、起こしてやるな。ただでさえ主の代役で疲れているんだから」
 小兎丸が熱中症に倒れたのは、蒸し暑い夏のせいだけではなかった。度重なる出陣、遠征、そして本来審神者がすべき仕事もこなしていることからの疲れによる体の疲弊が原因である。
「ねぇ、起きてるんでしょ」
「…………」
 まるで注意に耳を貸さない鯰尾にため息をつくしかない。しかし、その弱弱しい声に強く言えない己に対しての呆れの方が強かった。
「小兎丸」
 何度目かの呼称で諦めた風に瞼が持ち上がった。薄暗い部屋の中で鈍く輝く瞳が不安一色の鯰尾の顔をとらえる。
「…………」
「一緒に寝てもいい?」
「………普段からそうやって尋ねてくれ」
 眉間に皺を寄せる小兎丸に笑って布団に潜り込む鯰尾。瞬間、審神者が現世から持ち込んできた桜石鹸のほのかに甘い匂いと小兎丸の嗅ぎ慣れた匂いが鼻孔をくすぐった。
 小兎丸は、暫くして聞こえてきた寝息に皆と同じくため息をつく。
「兄さん、すみません。とんだご迷惑をおかけしました」
「礼なら次郎に言ってくれ。お前を湯浴みへ連れてここまで運んだのはあいつだ」
「……そうですね。姐さんにも礼をしなければ…」
 次第に重くなっていく瞼が視界を遮った。じんじんと鼓膜を揺らしていたセミの声が少し遠くに聞こえる。
「とにかく今は休むといい。お前は真面目すぎる」
 骨喰の言葉に返事ができていたか分からない。ただ、頬に触れる鯰尾の柔らかな髪がくすぐったかった。


「………寝たか」
 骨喰は、そっと立ち上がって部屋を出る。鯰尾を連れ出して小兎丸ひとり静かに休ませることには失敗したが、それで良かったのだろう。一つの布団に二人はいって暑かろうに。それでも気持ちよさそうに寝ているんだから。

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