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□世迷い言ひとつ
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「ミホークぅ……」


ジュラキュール・ミホークといえば知らぬ者はいない、かの世界最強の剣士の名だ。対等の地位に無い者、対等の力を持たない者の口に上る時は、怯えや恐怖の感情を伴って発音されるべき名前だ。間違っても猫が喉を鳴らすような、甘えた響きで呼ぶ者なぞいない。
ーーこの少女以外には。


鷹の目を持つ男はやれやれと振り返った。はたしてそこには、いっそあざといくらい眉根を寄せてちょこんと小首を傾げた少女が、右手でミホークのシャツを引っ張り、左手に瓶を抱えて突っ立っていた。


「………なんだ」
「ジャムの瓶が固くて開かないの」


そんなことで呼ぶなと思いながらも容易く開いた瓶を手渡すと、美味しいタルトを作ってあげるからね、と無邪気に笑ったナミに、余計なことは言うべきではないと口を噤む。不快な気候にある島の湿気に支配された城、とりわけじめじめした厨房がオーブンの熱であたたまって、甘く香ばしい匂いに満たされるさまは、なんとも不思議だったが悪い気はしなかった。




恩を着せるつもりは無かったし、助けようと思ってやったことでも無い。ただあの魚人たちが前に立ち塞がったから、排除したまでのこと。だから自己犠牲精神が有り余っているらしいこの少女が、自分についてくると言い張ったことに対しても、厄介ごとが増えた以上の感情は持ち得ない筈だった。
けれど少女の瞳の、それこそ鷹の目にも引けを取らぬほどの、強い輝きに興味を覚えたのも事実だ。同行を許可したのはそれだけの理由で、天気が読めるとか海図が描けるとかは後付けだった。


「ちょっと焦げちゃった」


おずおずと差し出された菓子は確かに端の方が黒っぽかったが、格子状の生地に綺麗な焼き色がついていて、味も申し分無かった。
フォークが皿と口を往復するのを、大きな瞳で穴が開くほど見つめてくる。琥珀のようだ、と思ってから、やはり違うと考え込んだ。遠い昔に息絶えた輝きとは違う、その都度くるくると表情を変える生きた宝石。まだまだ年端もいかぬ小娘のくせに、酸いも甘いも噛み分けたような、底知れぬ深い深い煌めき。


美味しいかな、と控えめに訊いてくる不安げな顔に軽く頷いてやると、宝石は嬉しげにきらきらと光った。
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