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□A
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カップの代わりにローの胸に飛び込む形になったナミは、突然のことに目を白黒させていた。
テーブルの反対側で聞こえた、陶器の割れる派手な音と、残り少ないコーヒーが床を濡らしているだろう光景は気にならなかった。ローの能力を持ってすればこの惨劇をなかったことにするのは一瞬だが、そんなつまらないことをしている暇はない。ただ、今は久しぶりに手に入れたぬくもりに鼻先を埋めて、束の間の幸福を得るのに忙しい。


「あ、あ、あの」


降ってくる声音が困惑に彩られていても、それは愛しい女の声に変わりない。電伝虫越しではない、本物の肉声。


「ごめんなさい、あの」


いつも求めていた温度。この肌の滑らかさ、細い腰。見事なくびれはいつ眺めても目の保養だが、もう少し肉をつけてもいいんじゃないだろうか、そうすれば今回のように船の揺れに翻弄されて頭をぶつけるようなこともなかったかもしれない。


「……とりあえず、離して?」


顔にかかってくすぐったい髪さえも、払い除けるのが勿体ない程に愛おしい。


「人の話を聞け!」
「うぐ」


あまりにもナミに飢えて変質者一歩手前まで来ていたローは、正確に腹に撃ち込まれた右ストレートでいつものクールな外科医に戻った。


「お前……おれはロギアじゃねェんだぞ、手加減しろ」
「あんたも能力者なの?」
「……あー……、そこから説明しなきゃならねェのか」


簡単に自分の能力を説明して、試しにナミが持ったままだった布巾と壁に立てかけられていた長刀を交換してみせると、わあ便利、という感嘆の声と笑みが零れた。
駆け引きや計算も記憶と一緒にどこかへ忘れてきたナミの笑みは、どんな風に唇が弧を描いたら一番自分が魅力的に映るか分かっているようないつもの妖艶さはなく、子供が親に向けるように屈託のない、純粋なものだった。


その眩しい笑みが、またローの胸をちくりと刺す。
そうやって笑顔を向ける相手は、今はナミにとって恋人ではなく、ただの知らない男。けれどこうして膝に乗せていると、いつもと同じ、甘えた声で名前を呼ばれるような気がーー


「ねぇトラ男」
「…………ローと呼べ」
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