それでも毒舌芸人が恋人です。
□忘れないで
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あの夜のこと、有吉さんは覚えてるのかな?
ずいぶん酔っていた彼の顔を思い出す。
ーーー帰んなよ。
ーーーまだ帰んないで欲しい。
酔ってたからなのか、それともみんなにあんな風に言ってるのか。
いや、彼はそういう人じゃないはず。
しかし、仕事がある以上、顔を合わせないわけにはいかない。
あの夜まで何度か交わしてたメールも、あれから一度もしてなかった。
彼のことが嫌いなわけでは全くない。
だから、仕事中は普通に目を合わせて話してた。
だけど、彼の目はなんかいつもと違くて、なにを考えてるのかわからなくて、少し怖かった。
そのあとの打ち上げでも、彼はお店の端で、数人とお酒を飲んでるだけだった。
私はたまにそっちを気にしながら、大テーブルで飲んでいた。
打ち上げも終盤に差し掛かった頃、私がトイレに立ったときだった。
「ねえ、るいさん、噂のパリジャン彼氏と別れたの?」
トイレの前でテレビ局のディレクターがそう声をかけてきた。
「…まあ。誰から聞いたんですか?」
「いや、渡部が、るいさんを食事に誘おうとか冗談で言ってたから。」
「…なるほど。」
渡部さんらしい。
「でさ、俺もるいさんを食事に誘いたいなと思って。今まで彼氏いたから、遠慮してたんだけど、俺、一度るいさんとじっくり話してみたいと思ってたんだよね。これからの仕事こととか。」
彼はにこっと笑って私を見た。
彼はよくお世話になってる人だった。
「そうなんですか。是非、行きましょう。」
「本当に?え、いつなら空いてるのかな?」
すると彼が急に距離を詰めてきた。
話したときの吐息ご髪にかかるくらいだった。
なんとなく嫌悪感を覚える。
お酒の匂いがしたせいもあった。
「えっと、今月は結構忙しくて…」
私は一歩後ずさって、答えた。
「そっかぁ」
彼は携帯で自分の予定を確認しながら、また一歩近づいてくる。
背中には壁が迫っていて、行き場がない。
かと言って、大きく避けるのは失礼だし。
と困っていると、後ろから大きな足音がした。
「すいません、そこで止まられると、トイレ行けないです。」
聞き慣れた声に私はゆっくり顔を上げた。
有吉さん…
びっくりするぐらい、その声と姿に安心した。
思わず一度ため息をこぼした。
「あ、それは失礼、ごめんね。」
彼ははっとしたように私から離れて、有吉さんに道を開けた。
私はその隙に、彼と壁の間から抜け出した。
「そうしたら、予定が空いたら連絡させてもらってもいいですか?」
「あ、うん!是非!…って、あ。」
私は勢いでそう告げてその場を離れた。
彼はとっさに返事をして、体を翻したが、私はすぐに席に戻った。
有吉さん、助けてくれたのかな?
それともただの偶然…
でもお礼は言わなきゃ。
しばらく経つと、中締めがあり、数人がゾロゾロと席を立ちがした。
代理店の私がすぐに出るわけにはいかず、一人一人挨拶をして、見送った。
気づけば残っているのはほんの数人。
その中に有吉さんもいたのだ。
というか、仲のいい芸人さんたち3人でこじんまり飲み続けていただけなのだけど。
ぶつぶつとだけど楽しそうに話している3人はなんだから話に入りずらい。
だけど、この前のこともあるし、今、話しかけなかったら、もうずっと話しずらくなってしまうような気がした。
お酒が入ってたこともあって、私は意を決して声をかけた。
「あの…有吉さん…」
するとカウンターの角を陣取って行っていた三人が一遍にこちらを見た。
有吉さんは少し驚いたような顔をしてる。
「さっきは、本当ありがとうございました。助かりました。」
私は彼に向かって頭を下げた。
「あ、いいよ。」
帰ってきたのはそれだけだった。
やっぱり、私の顔見たくないのかな。
「じゃあ…」
「うん、じゃあね。」
私は早めにそこから立ち去った。
もう、前みたいに話してくれないのかな。
そう思ったら、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
こんな感情いつぶりだろう。
大人になったと思ってた。
前の彼とはそういうんじゃくて、大人になったんだと思ってたのに。
それから、同じ会社から来た人たちと少し飲み足して、閉店とともに部屋を出た。
「るい、どうやって帰るー?」
「私は歩きかな。」
「そっか、じゃあ私たち、駅まで行くから、じゃあねー。」
そううぃて同僚たちと別れた。
私は一度ため息をついた。
「ねえ…」
「えっ!?」
急に後ろから呼び止められて、私は飛び上がって振り返った。
そこにいたのは有吉さん1人だった。
さっきの有吉さんの声だった?
「歩いて帰るんでしょ。送ってくから。」
すると彼は勝手に私の前を歩き出した。
その間一度もちゃんと、目が合わなかった。
「あ、すみません。」
私は少し早足で彼の後ろをついていった。
ポケットに手を突っ込みながら、少し不機嫌そうに歩く彼がなにを考えてるのか、私にはよくわからなかった。
さっき、突き放されたと思ってた。
だけど今は確かに私のすぐ斜め前を歩いてる。
その意外に厚い胸板も、ヒールを履いた私より大きい背も、無造作にセットされた髪と。
今までも知ってたはずの、当たり前なものが一個一個目につく。
「おまえ、もうちょっとちゃんと男をガードしたほうがいいよ。」
彼が急に口を開いた。
顔は見えなかった。
有吉さんに、おまえ、なんて呼ばれたの初めてで、少し乱暴に聞こえた。
「ガード…?」
「さっきだって、俺が来なかったらどうする気だったの?」
呆れたように彼はそう言った。
やっぱり、助けてくれたんだ。
「私、ぼーっとしてるんですよね、きっと。普通に歩いてても道聞かれること多いんですよ。」
「そういうことじゃない。」
彼が少し苛立ったように振り返り私の腕を掴んだ。
あの日と同じだ。
大きな手が私の腕を強めに掴んで放さない。
まっすぐ見つめられたら、目が離せなくなって、心臓の鼓動が速くなって。
なんでこんなにドキドキするんだろう。
周りの音も聞こえなくなる感覚。
昔感じたことがある気がする。
忘れてただけで。
「…くそっ。」
彼は小さな声で吐き捨てるように言った。
すると、すぐに私の腕を放し、また背中を向けて歩き出してしまった。
「有吉さん…」
「とにかくもういい年なんだから、ちゃんとした方がいいよ?」
なんでそんなこと言うんだろう。
しかも、その言葉はどこか冷たくて。
やっぱり、突き放されてるような気がして。
「ごめんなさい。」
私は小さくそう答えた。
「あの…」
それからしばらく続いた沈黙を破って、私は有吉さんの背中に声をかけた。
「ん?」
有吉さんが振り向くことはない。
「このまえは、家まで送ってくれてありがとうございました。電車ありましたか?」
「…ああ、うん。」
有吉さんが歯切れ悪く答える。
「あの、それで…」
「ごめん、俺、あの夜結構飲んでた?」
有吉さんは少し振り返って、私をちらっと見た。
「え、あ、はい。ってもしかして、覚えてないんですか?」
まさか…
あのことも?
「いや、なんかおまえを送ってった記憶はなんとなくあるんだけど…あんまり覚えてなくて。」
「あ、そう、そうなんですか?」
「俺なんか変なこと言った?」
有吉さんは少し焦った顔をして私を見てた。
「いえ!なにも!…なにも、大丈夫でした……よ。」
思わず声が震えた。
真に受けて、うじうじ考えてたのは私だけで、有吉さんからしたら、
ただの食事相手だったのか。
あー、ばかみたい。
考えすぎて、ドキドキして。
お酒が上げたテンションが勢いで出した言葉で、真剣に悩んで。
やっぱりもう、ドキドキする恋をするような歳でも、立場でも、ないのに。
「よかった…余計なこと言って、面倒になってもやだったからさ。」
面倒ってなんですか?
どんなことが面倒なの?
ねえ…
もし、私がまた二人で食事に行きたいって言ったら、それは…迷惑ですか?
「大丈夫でしたよ!でもそんなにお酒飲みすぎないでくださいね。」
「おまえだって、結構飲んでたろ。」
「まあ、そうですけど…」
まさか、そんなこと聞けるわけもなく、私は作り笑顔でそんな会話をした。
「また仕事で一緒になるっけ?」
家が近づいきた頃有吉さんがそう聞いていた。
「はい、実は番組を少し手伝わせてもらうことになって、また来週もお会いすると思います。よろしくお願いしますね。」
「そっか。まあまたみんなでも飲み行くだろうし、またな。」
ばかみたいなのに、私を見てくれる目とか、優しい声とか、お酒で緩んだ顔とか。
やっぱり、はっとすることがあって。
「はい。送ってもらって、ありがとうございました。」
「いや、別に通り道だから。」
「…そうでしたね。おやすみなさい。」
私は1度だけ、手を振ると、振り返らないで家に入った。
……どうしたんだろう。
今までだったら、素敵だなと思っても、想いにブレーキがかけられたのに。
有吉さんを見てると、それができなくて、独り占めしたくなって。
そんなことできないって思い知って。
そう、例えば、こうして帰ってきて、テレビを付ければ、彼は深夜番組でものすごく頑張って働いてる。
壊したくないと思う気持ちと、同時に、その姿を見てまた好きになる自分もいた。
どうしたらいいのか、まったくわからなくなっていた。
あの夜のことも、覚えてなくてもいいから、少しは本音だったらいいなとか。
できれば少しでも覚えていて、私を見たときに、有吉さんの鼓動が少し早くなったらいいなとか…
無責任なことを思っていた。
おわり