帰り路をなくして(未完)

□第6話【船のゆりかご】
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鬼怒川から舟に乗って利根川との分岐で一泊した後、利根川から銚子まで一気に下った。
銚子に住む古い鬼の一族の手を借りて紀州までの船を確保し、その船に乗り込んだのは宇都宮を離れて3日後のことだった。
紀州からは、別の船に乗り換えて薩摩へと向かうのだという。
風間さんや天霧さんは多くを語ってくれないけれど、話の端々から西の里は、どうやら薩摩の山奥にあるらしいということが分かった。





穏やかな大海原を航行する船の揺れは心地よく、気づけばトロトロと眠ってしまっていた。
よくこんなに眠れるものだと我ながら呆れながらも、襲いくる睡魔に打ち勝つことができない。

「まだ怪我が十分に癒えていないということだろう。ゆっくり休め。」

そんな私を笑うでもなく、静かな表情で風間さんがそう言ってくれたので、私は素直にその言葉に甘えさせてもらうことにした。

夢と現を行ったり来たりしながら考えるのは、自分の体に流れている鬼の血のこと。
鬼なんて、お伽噺の世界に出てくる悪者としての印象しかなくて、自分が鬼だと言われてもなんだかピンとこない。
でも、私は人ではなく鬼だったのか…と、どこか妙に納得している自分がいるのも事実だった。

風間さんの言う通り私が鬼なのだとしたら、なぜ自分は人として育てられてきたのだろうか。
それを風間さんに問うと、

「お前の中に眠る記憶に尋ねた方がよかろう。」

と言って答えてくれなかった。

私の中に眠る記憶……。
よくよく考えてみると、私には父様と江戸で2人で暮らしていた時の記憶しかない。
私は、この時はじめて、ここ数年の記憶だけでなく幼少の頃の記憶も全くないことに気づいたのだった。





夜の帳が下りた頃から、私は下腹部に鈍い痛みを感じ始めていた。
腰に纏わりつくような、この痛みには覚えがある。
大怪我をしたり、記憶を失ったりと非日常的な問題に直面していたので、すっかり失念していたけど………この痛みは……お馬。
厠に行くと、案の定お馬が始まっていた。
応急処置として手ぬぐいで対処してみたけれど、

「ど…どうしよう。」

お馬の準備を何もしていなかった私は、おろおろと私専用に宛がわれた船室の中を歩き回った。
風間さんと天霧さんを始め、船乗りの方々は全員男性で、お馬の相談をできるような人はいない。
でも、このまま処置をしないわけにはいかない。
だ、誰に相談したら…っ!





天霧さん…まだ起きてるかな。
日が落ちてから殿方の船室を訪ねるなんて非常識だって分かってるけど、事は急を要する。
風間さんには何となく相談しにくいし、ましてや、よく知りもしない船乗りの方にお馬の相談をするというのも変な話だ。
天霧さんには奥様がいるって聞いたことがある。
だから、天霧さんに相談するのが最善だと判断したのだけれど…。
でも、でも!
殿方にお馬の相談なんて…。

天霧さんの船室の前をウロウロと歩き回っていたら、その気配に気づいたのか船室の扉が開き、天霧さんが顔を出した。

「どうなさったのですか?」
「お休みのところ申し訳ありません。あ…あの…あの、ですね。」

何と言ったものか…。
しどろもどろの私の顔を見て、天霧さんは察してくれたらしく、

「もしかして、お馬ですか?」

と、小声で尋ねてくれた。
天霧さんてすごい!
男の人なのにどうして分かるの!
と思いながら、コクコクと首を縦に振ると、

「少々お待ちください。」

と言って一度船室に戻り、風呂敷に包まれた何かを持って戻ってきた。

「長旅なので用意しておいたのです。使い古しのボロ布ですが洗ってあるので清潔です。どうぞ、お使いください。」

と、厳つい顔で微笑みながら風呂敷包みを渡してくれた。
あうぅ。
天霧さんが菩薩様か観音様に見える!

「ありがとうござ…。」
「何をコソコソしている。」
「ひぃっ!」

天霧さんにお礼を言いかけたところで後ろから風間さんに話しかけられて、私は飛び上がるほど驚いた。

「闇にまぎれて何をしている。まさか逢引ではあるまいな?」

恐る恐る振り向くと、不機嫌そうに眉間に縦じわを寄せ、目を細めた風間さんが暗がりに浮かび上がっていて、まるで鬼のようだと…実際、鬼なのだけど、そう思った。

「その包みは何だ?」

低い声で風間さんに問われた私は、天霧さんを見てフルフルと首を横に振った。

「風間。女性に不躾な質問をするものではありませんよ。さ。千鶴殿、お行きなさい。」
「天霧……何の事だ?」
「あ、あのっ。ありがとうございました。」

私は、天霧さんに感謝の気持ちを述べて風間さんの横を通り過ぎ、そそくさと自分の船室へと戻った。
風間さんの横を通り過ぎる瞬間、視界の端で訝しげな顔でこちらを見ている風間さんが見えた。
なんとなく、風間さんに相談しなくて正解だと思った。










「ふぅ。」

お馬の手当をして一段落した私は、備え付けの寝台の上にコロリと横たわった。
穏やかな船の揺れに身を任せていると、痛みで強ばった体が徐々に解れていくのを感じた。

天霧さんて体格がいいから見た目はすごく“男の人”なんだけど、物腰が柔らかいというか、すごく気が回るというか…まるで母様みたい。

私には、母様の記憶がない。
私が幼い頃に亡くなったという母様は、どんな女性だったのだろう。
母様が生きていたら天霧さんのように私の体を気遣ってくれたりしたんだろうか。

なぜだか今日は、妙に母様が恋しい。
二十歳にもなった娘が母恋しいなんて…変かな。
こんなふうに船の揺れが気持ちいいのは、母様のお腹の中にいた頃を思い出すからなんだろうか。

ねぇ、母様。
鬼として育てられいた頃の私は、どんな娘だったの?


----------思い出したい……全て………。


じんわりと訪れた睡魔の誘惑に抗いきれず、私は夢の中へと落ちて行ったのだった。







次は、いよいよ鬼の里に到着の予定。

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