帰り路をなくして(未完)
□第4話【失われた居場所】
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「う…。」
割れるような頭の痛みで目が覚めた。
ここは、どこだろう?
草と土の匂いがする。
重い瞼をなんとか抉じ開けると、すらりとした無数の竹が夜空に向かって真っ直ぐに伸び、さやさやと靡いているのが見えた。
ここは………竹林?
私は、どうして竹林で横たわっているの?
視線を地面付近に移動させると、見知らぬ男の背中が視界に入った。
ぼんやりとその背中を見ていたら、私の視線に気づいたのか男が振り返った。
----------誰?
金色の髪と燃えるように赤い瞳を持った男がそこにいた。
「気が付いたのか。」
「あなたは…?」
「俺が誰だか分からぬのか?」
自分はどうやらこの男と知り合いらしい。
しかし頭の中は、まるで靄がかかったかのように白く濁り、何も思い出すことはできなかった。
私は、静かに頭を振った。
「痛っ…。」
頭を振ったことで、再び激しい痛みに襲われる。
「ぐ…く…。」
吐き気を催すほどの痛みに耐えられず、私は頭を抱えながら身悶えた。
そんな私の背を男の手がやさしく擦る。
「吐いても構わん。我慢するな。」
「は…う…。」
込み上げる吐き気を浅く息を吐きながらやり過ごす。
どのくらいそうしていただろうか。
背中に温もりを感じながら、私は意識を手放した。
次に目が覚めた時、私は布団の上にいた。
「しばらく休め。」
竹林で私を介抱してくれた-----風間千景と名乗る男が、ここは宇都宮の外れにある宿場町だと教えてくれた。
私は江戸の診療所で、京に行った父様の帰りを待っていたはずだ。
それがなぜ宇都宮にいるのか、皆目見当がつかない。
そのことを話すと、風間さんと傍に控えていた顎髭を蓄えた男-----天霧九寿と名乗る男が顔を見合せた。
さら さら さら
この宿場町は、水の郷として有名らしい。
宿屋の横を流れる小川を覗くと、澄んだ水の中で藻がゆらゆらと気持ちよさそうに揺らめき、魚がすいすいと泳いでいるのが見えた。
小川を見ながら、私は医師の言葉を思い出していた。
----------お気の毒ですが、ここ数年の記憶が失われているようですな。
私の記憶は、文久3年の秋で途絶えていた。
今は慶応4年なのだという。
私の中から、およそ4年半分の記憶がごっそりと抜け落ちていた。
「探したぞ。」
背後から声を掛けられ振り向くと、そこには風間さんが立っていた。
「もう寝ていなくても大丈夫なのか?」
「あ…はい。ご心配をおかけしました。体は、もう大丈夫です。」
数日の間、寝たり起きたりを繰り返しているうちに頭の痛みは消え、体を動かしても吐き気に見舞われることはなくなった。
「でも、どうしても思い出せなくて…。」
自分のことなのに、思い出せない。
何か、とても大切なことを忘れている気がして歯がゆい。
私は、きゅっと唇を噛んだ。
「そう思い詰めるな。日々の生活に必要な知識は忘れておらんのだろう?」
「はい。問題ない…と思います。」
「ならば焦らずともよい。…風が出てきた。中へ入るぞ。」
風間さんが自分の羽織を脱いで、私の肩に掛けてくれた。
羽織から風間さんの体温が伝わってくる。
そういえば風間さんは、竹林で背をずっと擦ってくれたんだっけ…。
「ありがとうございます。風間さんは、やさしいんですね。」
「俺が、やさしいだと?」
面白そうに風間さんが笑った。
風間さんて普段は不愛想で少し怖いけど、笑うと幼くなるんだな。
年上なのにかわいいと思うのは変だろうか。
もっと笑えばいいのに…と思う。
「お前の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。」
「あの…私と風間さんはどういった関係なのですか?」
「知りたいか?」
私が頷くと、風間さんが真顔に戻った。
「例えば、俺が“夫婦だ”と言ったらお前は信じるのか?」
「夫婦…ですか?え…と。」
今が慶応4年ということは、私は二十歳ということになる。
嫁いでいてもおかしくない…というか、嫁いでいない方がおかしい年齢だ。
あたふたしながら答えあぐねていると、風間さんが笑った。
「何を慌てている。夫婦ではないから安心しろ。」
「もうっ。からかわないでくださいっ!」
でも…。
記憶を失う前の私は、想う人がいたのだろうか。
どうして、それさえも思い出せないの…。
宿屋の部屋に戻ると、天霧さんが世の中の情勢を教えてくれた。
驚いたことに、将軍が大政奉還を上奏し、新政府軍と旧幕府軍の間で戦争が起こっているのだという。
そして、数日前に旧幕府軍によって宇都宮城が落とされたとのことだった。
しかし、一度は旧幕府軍によって落とされた城が今日、再び新政府軍に奪い返されたため、旧幕府軍は日光に拠点を移すために宇都宮から退き始めているそうだ。
しかも、戦場では混乱に乗じて略奪や強姦が横行しているのだという…。
「千鶴殿。もう少し休ませて差し上げたいのですが、動けるようなら早々に出立いたしましょう。ここにも戦火が飛び火しないとも限りません。」
「…あの、どこへ?」
「西へ。我々の里へ。」
“西”とはどこのことだろう?
私は風間さん達と一緒に行ってしまっていいの?
「待ってください。私は、江戸の家に戻ります。」
「江戸城は先日、新政府軍に明け渡されました。血が流れることなく開城されたと聞いていますが、江戸の城下は混乱していることでしょう。今、江戸に戻るのはお勧めできません。」
「そんな…。」
「千鶴殿。我々は、あなたを悪いようにはしません。ご決断を。」
逡巡する私に、風間さんが手を差し伸べた。
「千鶴。共に、来い。」
信じて…いいのだろうか。
風間さん瞳は澄んでいて嘘はないように思えた。
だから。
迷いながらも、私は風間さんの手を取ったのだった。
このお話のネタバレですが…。
ちー様が一休みしたのは、宇都宮城の鬼門除けの神社である八坂神社の裏手にある竹林という設定。
そして、千鶴ちゃんの具合がよくなるまで宿泊していたのは、宇都宮城から見て鬼門方向にある白沢宿という宿場町です。
白沢宿のすぐ近くには、鬼怒川が流れています。
まさに「鬼」づくし。
鬼門は鬼の通り道ということで、今回は鬼さん達に鬼門に沿って動いてもらいました