歳三くんと私(未完)

□水無月の章
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水無月の章【1】


✻ ✻ ✻ ✻ ✻


今日から6月。
そして、今日は全8回の家庭教師のバイトの最終日でもある。
今のところバイトの期間延長の打診がないので、土方家におじゃまするのは多分、今日が最後になるだろう。

時給1500円という好条件に思わず飛びついてしまったけれど、2時間という限られた時間内で効率よく勉強を教えるには十分な教材研究が必要なのだということを、私はバイトを始めてから気づいた。
個人契約の場合、大手の家庭教師派遣会社のように決められた教材があるわけではないので、自分の時間を削って教材研究をしなければならない。
教材研究に費やした時間を含めて考えると、時給的には賄目当てで始めた定食屋のバイトと変わらないような気がした。

でも、楽しかった。
中間テストの対策問題を練ったり、歳三くんの弱い箇所を強化するためのプリント作ったり…などなど、面倒な作業もあったけれど、やりがいのある仕事だと思った。
教員をめざす者としては、いい経験ができたと思う。

それに……最初の頃は、まるで敵に相対するハリネズミのように刺々しかった歳三くん態度が微妙に軟化し、近頃ではほんの少し、本当にほんの少しだけだけど笑顔を見せてくれるようになった。
野性動物が心を開いてくれたようで嬉しい。

ある時、勉強の合間に歳三くんと何てことない世間話をしていた時のことだった。
どんな話題だったか忘れてしまったけれど、私の話が歳三くんの笑いのツボにはまったらしく、それまで無愛想だった顔が、くしゃりと崩れた。
それが、歳三くんの笑顔を初めて見た瞬間だった。
そして、その表情に不覚にもときめいてしまった自分に愕然とした。
いくら男の人に免疫がないとはいえ、4歳も年下の、しかも中学生にドキドキするなんてどうかしてる。
普段、笑わない人が笑ったので、驚きのあまり心臓が高鳴ってしまっただけ…。
そうだ。
きっと、そうに違いない。
私は、自分の中に芽生えた淡い感情を“気のせい”として処理することにしたのだった。





今日で終わる関係なのだから深く考えるのはよそう。
寮を出る前に心の中でそう決めた私は、朝からしとしとと降り続く地雨の中、土方家へと向かった。





玄関で私を迎えてくれたのは歳三くんではなく、黒のリクルートスーツに身を包んだ蘭先輩だった。
膝丈のタイトスカートからスラリと伸びた美脚と、1つに束ねた長いストレートの髪がストイックな色気を醸し出している。

「蘭先輩!お久しぶりです。その格好…今日は就職活動だったんですか?」
「ううん。中学校まで歳三のこと迎えに行って、さっき帰ってきたとこなの。」
「スーツ姿で…ですか?何かあったんですか?」
「うーん…。とりあえず、上がって?」

蘭先輩の後ろ姿は、覇気ががないというか、どことなく疲れている様子だった。
いつも元気な蘭先輩がどうしたのだろう?
不思議に思いながらリビングダイニングに足を踏み入れると、制服のまま堂々と煙草を咥えている歳三くんと目が合った。

「歳三!制服がヤニ臭くなるから着替えてから吸えっていつも言ってるでしょう!それに、煙草は換気扇の下で吸ってちょうだい!まったく、もう…。あ、千鶴ちゃん、お茶入れるから適当に座って?」

蘭先輩……そうではなくて、ですね。
私の記憶が確かなら、未成年の喫煙は法律で固く禁じられてるはずなんですけど…。

「早く大人になりてぇ…。」

そう呟いた歳三くんのまだ幼さの残る顔はどこか虚ろで、明らかに“何かあった”ことを物語っていた。
歳三くんは蘭先輩に反抗するでもなく、吸いかけの煙草を灰皿に押し当てて揉み消すと、ドサリと音を立ててソファに身を預けて目を瞑った。

重苦しい雰囲気に居心地の悪さを感じた私は、ダイニングの椅子に座って視線を彷徨わせながら、蘭先輩が入れてくれたアイスティーを飲んだ。
ふと、ダイニングテーブルの上を見ると、そこにはテストの答案用紙が置いてあった。
中間テストが返ってきたのかな?と思い、それを手に取って私は驚いた。

「92点…!これって中間テストの答案ですよね?歳三くん、すごいじゃないですか!」
「カンニングを疑われた。」
「…え?」
「急に点数が上がったからカンニングしたんじゃねぇかって生徒指導室に呼び出された。」
「ええ?」
「カンニングなんてショボいことしてねぇって言ってんのに、あいつ……“正直に言えば許してやる”なんて上から目線で俺を見やがった。」
「そ、それで?」
「その教師の胸ぐらを掴んだ。」
「殴っちゃったんですか?」
「殴ってねぇよ。」

それだけ言うと、歳三くんは再び瞳と口を閉ざしてしまった。
いつもは賑やかな蘭先輩も瞳を伏せて黙っている。
私達の間に、梅雨空のように重苦しい沈黙が落ちた。
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