帰り路をなくして(未完)
□外伝【鬼火の路】
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五月。
雪村家の若き女頭領である千草は、無事に男女の双子を出産した。
薫と千鶴と名付けられた双子は通常の赤子よりもやや小さく生まれたものの、元気いっぱい健やかに育っている。
「千草〜。今度は千鶴が泣いてる…んだけど……。」
乳を欲しがってぐずる千鶴をあやしながら夫婦の寝室として使っている奥の間の襖を広足が開けると、布団から上体を起こして右手の人差し指を唇に当てて微笑む妻と目が合った。
「薫が寝そうなんだ。」
「ごめん!」
小声で短い会話をした後、千草が慣れた手つきで薫を縦抱きにして背中をトントンと叩き始めた。
出産から半月以上経ち、千草は随分と赤子の扱いが板についてきた。
薫は“ゲフッ”と盛大にげっぷをした後、腹が満たされて満足したのか、とろとろと微睡み始めた。
千草は薫をそっと布団に寝かせてから、乳を求めてふにゃふにゃと泣く千鶴を夫の手から受け取り、豊かに膨らんだ乳房を寝間着から取り出して千鶴の口に含ませた。
すると千鶴は、まだすわらない首を必死に動かして乳首を探し当て、母の顔をじっと見つめながら乳を飲み始めた。
「…そう、物欲しそうな顔をするな。」
千草は胸元に釘付けになっている夫をちらりと横目で見ると、小さく笑った。
「だって、その胸は反則…。」
出産前からずっと“お預け”の状態が続いている広足は、我慢の極地で修業をしている気分なのだ。
そんな夫を見て千草はクスクスと笑った。
「千鶴は広足に似ているな。」
「そう?」
「千鶴だけでなく薫も広足に似ている。黒目がちな瞳が広足にそっくりだ。二人とも私の腹から生まれてきたのに、あまり私に似ていないというのは納得できん。」
そう言いつつも、胸に抱く娘を見る眼差しは慈愛に満ち溢れていた。
数日後に迫った床上げを済ませれば、千草は頭領としての仕事に戻らなければならない。
だから、せめて床上げまでは乳母の力を借りずに自分の乳だけで双子を育てるのだと千草は頑張っている。
幸い乳の出は良好なのだが、双子は時間差で乳を欲しがる上、飲む量は通常の倍。
食べても食べても乳として出ていってしまうようで、出産前にふっくらした体は元に戻りつつあった。
愛しい妻と可愛い我が子……こうやって親子四人で過ごす時間の何と幸せなことか。
広足は、瞳を閉じて甘ったるい乳の匂いを存分に味わいながら、命にかえても妻と子を守ると決意を新たにした。
六月。
風間の頭領の名代として千景が護衛の天霧と共に雪村の里へやってきた。
千景は、絹の産着などの祝いの品々と共に一通の書状を千草に手渡した。
そこには、千鶴を千景の許嫁に…という内容が千速の手で書かれていて、それを読んだ千草が考え込むような仕草をした後、それを広足に手渡した。
「まだ生まれて間もない千鶴を14も年の離れた千景の嫁に、というのは突飛な話だな。」
「…は?嫁??もう縁談???」
生まれて二月(ふたつき)も経たないのに?と広足が大きな瞳を更に大きくして書状を覗き込んだ。
「さて、どうしたものか。千鶴が年頃になる頃には千景は30。その頃には妾の一人や二人……もしかしたら幾人かの子もいるかもしれん。千景を巡る女同士の争いの中に千鶴をやるというのもな…。」
「……心配無用だ。俺は妾を置くつもりはない。正妻に子ができた時に妾との間の子がいては、家督争いの種になろう。」
元服を済ませ、少し大人びた表情をするようになった千景が千草の腕の中ですやすやと眠る千鶴を見ながら答えた。
「…ということだ。千鶴、どうする?千景の嫁になるか?しとやかな娘でなければ風間の嫁は務まらんぞ?」
母の顔をした千草が微笑みながら、腕の中で眠る愛娘に話しかけた。
“しとやかな娘”というのは風間の長老達が好む嫁という意味だろうか…と千景は思った。
“男女の双子は前世で心中した者の生まれ変わりなんだとか”
“双子の片割れを里子に出さず手元で育てるとは畜生孕みの女頭領はやることが違う”
“雪村家に良からぬことが起こらねばいいが”
千草が無事に双子を産み落としたという報せを受けても言祝ぐことなく、まるで雪村家に災いあれと願うような口ぶりをしたクソじじい共が望むような嫁でなくてもよいと思う。
「別にしとやかでなくても俺は構わん。俺は、気が強い女の方が好きだ。」
「そうか…。では、婿殿。未来の嫁を抱いてみるか?」
「いや、いい。赤子の抱き方など知らん。」
「そう言わずに抱いてみろ。まだ首がすわってないから…そっと。そう。首と尻をしっかり支えてやるのだ。」
千景は、自分の腕の中にある命の重みと体温を感じながら心の中で“俺の嫁か…”と呟いたのだった。
【そして道は続く…】