帰り路をなくして(未完)
□外伝【鬼火の路】
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【語り手:千景】
千草の懐妊が明らかになったのは、一年で最も寒い寒(かん)の時期だった。
待ちに待った朗報に、屋敷の中は一足早く正月がやってきたかのような華やいだ雰囲気に包まれた。
懐妊の報せを受けた雪村家から、山芋・にんにく・高麗人参などの滋養のある食べ物と一緒に生きたスッポンが送られてきたのには驚いた。
しかし、悪阻の真っ最中である千草にとってはスッポンどころか水を飲むのがやっとだったらしい。
食欲のない千草を見た父が、伊予から蜜柑を取り寄せた。
父が手ずから蜜柑を千草に食べさせようとし、千草は自分で食べられるからいいと言い、いいから口を開けろと父が言う……そんなやり取りを見せつけられ、息子の前でよくもまあ恥ずかしげもなくいちゃつけるものだと呆れたものだった。
風間の里に珍しく雪が降ったのは、年の瀬のことだった。
「雪が珍しいのか?」
千草の部屋の窓辺に座って師走の空から舞い落ちる淡雪を見るともなく見ていた俺に、千草が話しかけてきた。
「雪とは、まるで花吹雪のようだと思ってな。」
「千景の例えは風流だな。冬の雪村の里に来れば嫌というほど雪が見られるぞ?湖に飛来する鶴の群れも見応えがある。」
「鶴なら薩摩でも見ることができるが?」
「それは“クロヅル”だろう?雪村の里に飛んで来るのは“タンチョウ”といって全体的に白くて頭の天辺が、こう…赤いのだ。優雅で美しい鳥だぞ?」
自分の頭の天辺を撫でながら千草が微笑んだ。
「そうか。では、ややこが女だったら千の鶴と書いて“千鶴”という名はどうだ?美人になりそうではないか?」
「なるほど“千鶴”か…。いい名だな。では娘が生まれたら“千鶴”と名付けることにしよう。千景が名付け親だ。」
俺が名付け親か…。
年の離れた弟か妹が間違いなく千草の腹の中にいるのだと実感した俺は、なんとも面映ゆい心持ちになった。
正月が明け、水がぬるみ草木の芽が出始めた頃のことだった。
夜更けだというのに屋敷の中が俄かに騒がしくなったことで俺は目を覚ました。
どうやら東の対の屋で何かあったらしい。
下働きの女をつかまえて事情を聞くと、千草が激しい腹痛を訴えていて医師が呼ばれたとのことだった。
………どのくらい時が経っただろうか。
東の対の屋から女達のさめざめとした泣き声が聞こえ始め、俺は千草の身に何か良からぬことが起こったのだと悟った。
重苦しい空気に耐えられなくなって部屋を出ると、東の対の屋から寝殿に繋がる渡殿で憔悴しきった様子の父が天を仰いでいる姿が見えた。
「父上…千草がどうかしたのですか?」
「……腹の子が。」
父は短くそう言うと、唇を噛みながら片手で顔を覆った。
………千草の腹の子は、流れてしまった。
しかも、子が流れる際に大量の出血を伴ったらしい。
いくら千草が純血の鬼で強い力を有しているとはいえ、一度に大量の血を失えば命にかかわる。
千草は三日ほど生死の境を彷徨い……そして、子が流れてから四日目の朝になって、ようやく意識を取り戻した。
千草は朦朧とした意識の中で、流れてしまった子を一度でいいから抱かせてほしいと父に頼んだらしい。
千草は絹布に包まれた赤子の亡骸をそっと胸に抱き、
「千鶴。きちんと産んでやれず、すまなかった…。」
静かにそう言ったそうだ。
その後、赤子は風間家の先祖が眠る墓へと葬られた。
一命は取り止めたものの、二度と子を孕めない体になってしまったかもしれないと医師から告げられた千草は、父のもとを離れて雪村の里に戻る道を選んだ。
その話を聞いた俺は、子ができないという理由だけで離縁するのかと父に詰め寄った。
憤る俺をなだめるように、父は風間家と雪村家の間で交わされた約束について話してくれた。
この時、俺は初めて二人が正式な夫婦でないことを知ったのだった。
“母上のことを忘れたわけではないのだ。ただ、風間の頭領として雪村の娘を迎えねばならない…。”
確かに……。
千草が風間の里に来ることになった時、父にそのような話をされた。
しかし、あの時の俺はまだ十(とお)になったばかりで、子をなすだけの関係という意味が理解できなかった。
そのため当時の俺は、父が後妻を迎えることになったのだと勝手に解釈したのだろう。
だが、あれから三年が経ち、雪村家の次期頭領という立場にある千草が長々と里を空けるべきではないことくらい俺にも理解できるようなっていた。
今までは子をなすという目標があったが、それが叶わなくなってしまったかもしれない今、千草が風間の里に滞在する理由はどこにもなかった。
千草が旅立つ日、風間の里に季節はずれの雪が降った。
桜と雪が舞い散る中、千草は雪村の里へと帰って行った。