NOVEL(別設定)

□エデン
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神は,この世に存在しない。

それが,ギイの持論だった。





「ギイ・・・・ギイ?どこにいるの?」

「エリコ!どうしたんだい?」

「あら,ジャック。ギイを見なかった?大切な婚約者を放っておいて,あの人ったら一体どこへいったのかしら?」


絵利子は,腰に両手を当てると,憤懣やるかたないといった表情を隠すことなく,

柔らかな頬をぷうっと膨らませる。

幼馴染のジャックは,そんな幼い一面を素直に垣間見せる絵利子を好ましく思い,微笑んだ。


「ギイなら,中庭さ。一人になりたいってさ。」

「一人にですって?」


絵利子は,呆れたような声を出した。


「可哀相に。キャロラインは,ギイが声をかけてくれるまで,壁の花でいるつもりよ。」

「まさか・・・まだ,一曲も踊ってないのかい?」

「ええ。」


キャロライン・ムアは,絵利子の愛する兄,義一の婚約者だ。

上流階級の娘にありがちな高慢なところがなく,口数は少ないが優しい娘で,絵利子とも仲が良い。


「連れ戻してくる!あと少しで,ラストダンスよ。せめて一曲ぐらい踊ってくれたっていいわよね。」


絵利子は,言うなり,淡いピンク色をしたシフォンのドレスの裾をふわりと翻した。

夜の帳に色鮮やかな蝶の舞う姿が,ジャックの目の端に映り,そして消えた。









ここローズガーデンは,その名の通り薔薇の館だ。

マンハッタンの真ん中にありながら,深い森をその敷地に併せ持つ老舗の五つ星ホテルが

上流階級専用のパーティホールとして新しく提案したものだ。

重厚な石造りの館と丸く球体状に刈り込まれた植え込みが続くアプローチは

歴史ある英国庭園を思わせるもので,その広大な庭園の一角には美しい薔薇の園が広がっていた。

館の二階にあるテラスからは庭園へと直接繋がる石造りの階段があり,

そこをおりれば,薔薇の園への入り口ともなる小さな丸い噴水へと辿り着くことができた。





巨大なグループ企業の創業者を父に持ち,御曹司と呼ばれる青年は,

庭園へと繋がるテラスの端にある細工が施された積み石状の柱に凭れながら,紫煙を燻らしている。


「結婚か・・・。」


ギイは,婚約者の顔をぼんやりと思い描いた。

ムア家は,過去に1度の大統領と2度の大統領候補者を輩出している由緒正しい家柄だ。

キャロライン・ムアは,そんな上流階級の家庭に育ちながらも,非常識なところがなく大人しい気質の娘で

妹の絵利子とは,ハイスクール時代の同級生でもある。


「ベストな選択なんだろうな。」


金髪の巻き毛にブルーアイズ。

妹の絵利子ほど鮮やかな印象を残すことはないが,砂糖菓子のように愛らしい容姿ではある。

容姿端麗,健康で従順。

グループ企業の将来を担うことが決まっているギイにとって家柄も何もかも申し分ない相手だ。

重役達は大歓迎だろう。

SEXの相性も自分次第で何とかなるだろうし。

愛人を作っても,見てみぬふりをしてくれそうだ。

そこまで考え,ギイはシニカルに笑った。



現在の企業トップでもあるギイの父親とフランス人とのハーフでもある母親は,

珍しいことに恋愛結婚なのだという。

ギイに対しても,ムア家との結婚を強要などはしていない。

決めた相手がいないのなら考えてみないか?といった程度で

判断は全てギイに委ねられているといっていい。

この結婚話は,ムア家のほうが断然乗り気だと人づてに聞いた。

崎家の財力,ムア家の家柄。

この結合はムア家・Fグループどちらにとっても有益であることは間違いなかった。





「・・・・っあ・・・やっ・・・。」

「なにっ・・・。」



「?」


無人だと思っていた庭園に人の気配がする。

しかも,なにやら言い争っているような声が風に乗ってここまで届いてきた。


やれやれ・・ここも気の休まる場所ではなかったか。

ギイは,眉を顰めると小さくため息を洩らした。





妹の絵利子にせがまれて,やってきた上流階級の人間を対象とした仮面舞踏会。

若い連中の出会いを演出する場も兼ねているため,多少の火遊びは大目に見られる。

きっと,恋愛ゲームに現を抜かし,そのあげくの痴話喧嘩だろう。



「・・・やっ・・・」


薔薇の庭の奥から,仮面をつけた一人の少年が飛び出してくる。

仮面の下の瞳の色と乱れた黒髪から東洋人と思われた。

手には,楽器のケースを持っている。

察するに,先ほどまでホールで生演奏をしていた楽団のメンバーか・・・。




「待てっ・・・」


後から追ってきた男を見て,ギイは即座に介入すまいと思った。

父親は2代前の大統領。

一族揃って石油成金上がりの鼻持ちならない家系だ。

利益にならない厄介ごとには,関与せず。

ビジネスの鉄則だろう。

踵を返そうとしたギイの眼の端に,楽器のケースに刻まれた古ぼけたイニシャルが映った。



ギイは一瞬で判断を覆す。



「やめてくださいっ!」


ビロードの仮面の下の夜色の瞳は,嫌悪感に満ちている。

東洋人の少年は,掴まれた左腕を取り戻そうと,必死にもがいていた。


「俺をパトロンにするんだろう?」


仮面に隠された男の顔が,いともたやすく想像できる。

野卑た笑みを満面に浮かべているにちがいない。

強大な権力を自分の力でコントロールできない男は,自分より弱い者を支配する快楽へと走りがちだ。

この男も,そんなくだらない類の人間だ。


「嫌ですっ!」


抵抗すればするほど,この類の男は喜ぶに違いない。

この男を納得させるには,それなりの権力が必要だろう。


「おい!」


ギイは,二人がもみ合う噴水の前へと足を踏み入れた。


「待たせたな。」


言うなり,黒髪の少年へと近づき,その左腕を掴む男の手を払いのける。


「何だ?お前は。」


弱者をいたぶる快楽を中断させられた男の喚く声が,中庭に響いた。


「申し訳ないが,こいつのパトロンはオレなんでね。」

「なっ・・・」


男の眼に凶暴な光が見えた時,

ギイは,ビロードの仮面を外し,自分の素顔を晒した。

月光の中,対峙した青年の素顔を見た男の表情が一変する。


「少し,我慢しろ。」

「え?」


小さな声で囁くと黒髪の少年は不思議そうな瞳を見せた。


「んっ・・・・。」


ギイは,彼を素早く抱きこむと深く唇を合わせる。


「んんっ・・・うっ・・・」


腕の中で強張っている身体を掻き抱き,捻じ込んだ舌で口腔を弄る。

深い関係を持った者同士でしか交わさない性的なキスだった。

持っていた楽器のケースが音を立てて落ちる。

留め金がカチリと外れ,飴色のバイオリンが転がって乾いた音を立てた。


「んっ・・・ふっ・・・」


黒髪の少年の口元から,飲み込みきれない唾液が次々と零れ落ちる。

長い睫を震わせながら,きつく目を閉じ,荒っぽい所業に耐えるその表情が,

ギイの目には,何とも色っぽく扇情的に映った。


「もういいっ・・」


呆気に取られ,呆けたようにその光景を眺めていた男は,

我に返るなり一言叫び,転がっていたバイオリンのケースを力任せに蹴飛ばすと

腹ただしげに立ち去っていく。


「もう・・・大丈夫だ・・・。」


その後姿を確認したギイは,きつく抱き締めていた力を漸く緩めると,腕の中の少年を覗き込んだ。

それと同時にパーーーンという派手な音が中庭に鳴り響く。


「はっ・・放せっ!」


ギイは,一瞬何が起きたか分からなかった。

頬に感じる微かな痛みから,自分が彼に平手打ちを食らったのだと理解する。

ビロードの仮面に隠された彼の表情をうかがい知ることはできないが,

床にぶちまけてしまった楽器や弦を拾う手が微かに震えていることと,

仮面から覗く夜色の瞳が涙で潤んでいるように見えることからして

彼のプライドを少なからず傷つけてしまったのだと感じ取ることができた。


「すまん。いきなりあんな手荒なまねをして。」


ギイは,楽器を拾い集めて立ち上がった少年に頭を下げる。


「・・・・。」


それに対して,少年は黙ったまま目も合わせずに一つお辞儀をすると

足早に立ち去っていく。


「あ・・おい!」

「ギイ!」


彼を呼び止めようと一歩を踏み出したとき,テラスの奥から絵利子の自分を呼ぶ声が聴こえた。

その一瞬の躊躇の合間,黒髪の少年は夜の闇にその姿を溶かし,見えなくなってしまう。



ギイは,自分でも驚くくらいの落胆した溜息を洩らした。




「何かあったの?」

「いや・・・」




ギイは,そっと自分の唇を薬指の先でなぞってみる。

今しがた触れた彼の柔らかな唇の感触と甘い吐息が

いつまでもいつまでもそこに残っていた。



 T・H



ギイの脳裏に今もはっきりと刻まれている

楽器ケースに記されたイニシャル








この日




ギイは,初めて神の存在を意識した。
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