NOVEL(別設定2)

□「出自」
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「お褥辞退でございますか?」

「はい。」


託生は,この城で最高の要職を務める美しく聡明な女性を正面から強く見据えた。

が,彼女の端正な表情は微動だにしない。


「上様は,ご承知でございますか?」

「直接・・・・申し上げたのですが・・・。」

「ご承知されなかった。」

「・・・・・はい。」


柔和な笑顔を湛えつつも,彼女の口角がふっと上がったような気がした。


「さようでございますか。」

「三洲さまから,おとりなしいただけませぬか?」


託生にとっては,切実な問題だった。

身体だけの関係

そう割り切ってしまおうと思うのだが,昨夜のように激しく身体を重ねてしまえば,

そのまま情に流されてしまいかねない自分がいる。


彼は、間もなく正式な妻を迎えるのだ。

聞けば,由緒正しい家柄のたいそう美しい姫君であるとか・・・。

何も知らぬ罪なき女性を傷つけてはならぬ。

そう思った時,託生の胸の奥が微かにつきりと痛んだ。



三洲は,無言だった。

ただ,黙って託生の瞳を見詰めている。

やはり,この方でも無理なことだったのだろう。

託生は,諦めたように肩を落としたのだが


「承知いたしました。私から上様にお褥辞退の件,申し上げましょう。」


凛とした,澄んだ声。


「え?」


側室としての立場をわきまえよと,諌められるのかもしれないと思っていたのだ。


「万事,お任せくださりませ。」


三洲は,優雅な笑みを零した。


そして,三洲の宣言どおり,それから閨へのお召しはもとより将軍の来訪もぱたりとなくなったのである。







「静か・・・ですねえ。」


兼満の気の抜けたような言葉に,託生は複雑な思いで頷いた。

普段,昼間は御用商人の出入りの音が,あちらこちらから聞こえてくるのだが,

このところ人の出入りが極端に少ないように思える。


「人が・・・あまりいないと思うんだけど・・・。」


お褥辞退を申し伝えてもらってからは・・・あのお方もいらっしゃらない。

人づてに伝えるなんてと,きっと御不快に思われたことだろう。

こんなわたしに愛想が尽きるのも無理はないのだ。

ぐるぐると考えをめぐらせる託生に,兼満は少し考えながらも口を開いた。


「流行り病のせいか・・・と。」

「流行り病?」


託生は,繰り返した。


「はい。昨今,御城下において,麻疹が流行しておるのでございます。

 感染が広がらぬよう必要のない外出は控えるよう,お触れが出ておりますので

 御用商人たちが城内に出入りできないのでございます。」



当時,『麻疹は命定め』との諺どおり,命に関わる大病であり

江戸長徳の頃から20年,30年の周期で大流行し,常に多くの死者を出している。



「・・・麻疹・・・ですか?」

「はい。先日も,岩井の庄の民が感染し死者が多数出たため,やむを得ず村を焼いたそうにございます。」

「・・・酷いことを・・・・。」

「いたしかたござりませぬ。」

「命令を出されたのは,上様なのですね。」

「左様にございます。」


託生は,深い溜息をついた。


「お方様?」

「村には・・・女子も子どもも,おられたでしょうに・・・。」

「勿論です。・・・というか,お方様は何か勘違いをしておられるようですね。」

「勘違い?」

「村は,無人のまま焼かれたのです。病人は,小石川の療養所に移され手厚い看護を受けております。」

「・・そう・・・・よかった・・・。」

「上様は,罪無き民には慈悲深くお優しい方と,伺っております。」


にこやかに話す兼満に,託生の心は塞いだままだ。

それならば,なぜ,私の村の民は助けてはもらえなかったのか・・・。


「佐倉の庄は,その罪なき民人もみな焼き払われたというのに・・・上様が・・・優しい・・・?」


託生の瞳から,はらりと熱い涙の雫が零れ落ちる。

稚い年のまま逝かねばならなかった正太やお美代たちが不憫でならなかった。


「佐倉の庄の焼き討ちをお命じになったのは,上様ではございませんよ。」

「・・・・え?」


兼満の思いがけない一言に,託生は驚き目を上げた。


「老中の吉井様が上様の名で命令を出したとか・・。」

「そんなこと・・・全然・・・。」


あの方は,わたしに言ってはくださらなかった。


「仔細は存じませぬが,吉井様の独断と聞き及んでおります。新様から伺いましたので間違いはないかと。」

「あ・・・な・・んで・・。」


託生の心は乱れた。


「上様が,すぐ救援する部隊を向かわせたのですが一歩及ばなかったと。」


『そなたの大切な兄を・・・里の者たちを救うてはやれなんだ。』


あの呟きは,そういうことだったのか?

ああ・・・それが真実ならば・・・・

託生は,ふらり立ち上がると,縁側から中庭へと裸足のまま降り立った。


「お方様?どちらへ?」


兼満の慌てふためく声が後ろから聞こえてきたが,今の託生にはほとんど意味を成さなかった。

ふらふらとあてどもなく広い城内を彷徨い,ここがどこなのか,自分がどこへ向かっているのかもわからぬ。


が,突然腕を何者かに強く掴まれ,託生は顔を顰めた。


「どちらへ,行かれる?」


その凛とした声の響きには,聞き覚えがあった。


「赤池様・・・?」


目の前に立ったのは,寺から自分をこの城へ連れてきた若侍だった。


「こちらより先は表。奥のものが踏み入れることは許されてはおらぬ。」

「上様にお会いしとうございます。」

「上様に?」


赤池はその美しい眉を顰めた。


「お会いして,どうしても確かめたき儀がございます。」


託生は,必死に訴えた。

赤池は,そんな託生の顔をじっと見詰めていたが,やがて重い口を開いた。


「今は,だめだ。」

「え・・・?」

「御城下で麻疹が流行していることは存じておるか?」

「・・・・はい。」

「上様は,小石川の療養所をはじめ,病に倒れた民が収容されている場に赴き,最前線で指揮を取っておられる。」

「ならば・・・わたくしも・・・その場へ連れて行ってくださりませ。」

「ならぬ。」


託生の訴えは,冷静に切り捨てられた。


「そなたが行ってどうなる?足手まといになるだけだ。」

「・・・・。」


託生は,唇を噛む。

悔しいが,確かに自分には何もできることはない。

赤池の言うとおりなのだ。


「上様からも,そなたを病人に近づけるなときつく言われておる。」

「なぜ・・・そんな・・・。」

「そなたは,麻疹にかかったことはなかろう?」

「はい。」

「麻疹に免疫がなければ,感染する。そなたを危険に晒したくないと仰せだ。」


託生は,胸が熱くなった。

あの方は,わたしをこんなにも大切に思ってくださる。


「よいな。病の流行が治まるまで,大人しくしておれよ。」


赤池の瞳には,優しさが溢れている。

託生は,小さく息をついた。


「私も,この後,上様のお手伝いに出向くゆえ,そなたが話をしたがっておることを伝えよう。」

「ありがとうございまする。」


その時は,きっと真実を話していただこう。

託生は,少し明るい気持ちで,目の前に立つ凛々しい若侍を見上げた。



その時だった。


「申し上げますっ!」


城外から舞い戻ってきたと思われる家臣が荒い息をつきながら,赤池の前に縺れるように転がり込んできた。


「いかがした。」


不快気に片眉を上げて,赤池は,その侍を見下ろす。

肩で息をつきながら,その侍は言い放った。


「上様・・・上様がっ・・・麻疹に感染された由っ・・・御重態であらせられるとっ・・・今っ・・。」




託生の手から,

握り締めていた扇子が滑り落ち



床で乾いた音を立てた。
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