NOVEL(別設定2)

□百花繚乱 第1部 「奈落の恋」 
1ページ/6ページ


昨夜まで降り続いた雨のせいであろう。




濃い墨色をした土に若葉の息吹が幾重にも重なり,深く匂い立っている。




見上げれば,名も知らぬ小さな鳥達が緑深く茂る木の細い枝に止まり




可愛らしい嘴を上下しながら,さえずりを交わしていた。




竹でできた小さな獅子威しが山から引き込まれている清流を受け




その重みに耐え切れず,規則的に美しく澄んだ音を響かせる。






この寺で育った託生にとっては,当たり前の美しい日常。




いつまでも見ていたい温かな日常






多くは望まない。




この静かな環境の中,たったひとりの肉親と許される限り長く穏やかに暮らせればいい。




託生はそう思っていた。







「院主さまの御加減はいかがかえ?」





背後から突然かけられた声に驚き,振り返ると




そこには,背負子いっぱいに野菜を詰めた里の女が立って笑っていた。





「あ・・ありがとうございます。院主さまは具合が良くなくて・・・。」





託生の返答に気の良さそうな女は表情を曇らせた。





「発作を起こしなすったかね?」




「あ・・いえ・・そこまでは。少し熱が・・・。」




「そうね。」





女は,気の毒そうに託生を見ると,背負っていた野菜を寺の入り口に置き





「あとで与平が魚を持ってくるって言うとったから。」




「そうですか。いつもすみません。」




「なんの。託生さまも里までいつも出てきては大変じゃき。たまにはこうして持ってくるからの。」




「はい。」





重く嵩張る野菜やコメを担いで山道をひとり往復するのは




辛い仕事だ。




ましてや,今託生はやむをえないとはいえ,女のなりをしている。




日が暮れての山道では襲われる危険性もあり




なかなか一人で里へ下りることはできなかった。





だからこそ,こうした檀家でもある里の者達の好意がとてもありがたく心に沁みるのだ。





「下では,何も変わりはありませんか?」





里に下りることのできない託生たちが世間から取り残されるのは仕方のないことなのだが




少しでも世情を知って,この寺の当主でもある兄に何か一つでも伝えようと




人見知りの託生は勇気を振り絞って,いつも里の男や女達と会話を交わすのだ。





「うーーん。そうだねえ。」





どっこいしょと縁側に腰掛け,出してもらった茶を啜りながら女は考え込んだ。





「ああ,そういえば江戸の将軍様が亡くなられて,新しい方が継いだらしいんだけど・・・。」




「けど・・?」





なにやら曰くがありそうな女の口ぶりに託生は思わず先を促すような言い方をしてしまった。





「恐ろしいかただそうじゃ。」




「え?」




「なんでも,冷酷非情で失敗を許さない厳しい将軍様だとか。」




「は・・あ。」




「あとな・・・鬼の血を引いているらしいそうな。」




「・・・鬼?」





託生の頭には真っ赤な口が頬まで裂けた般若の形相の男の顔が浮かび上がり




想像しただけでもその恐ろしさに震えがきてしまった。





「髪の色が金茶色でな,目の色も薄く何を考えているやら,とんと見当がつかないとか。」




「はあ。」





託生の頭の中には,金茶色の髪の毛に角がにょっきり生えた頑丈な鬼の姿ができあがっていた。





江戸の町とは,怖いところなんだ,この山奥の寺にいる自分は随分と幸せなのだと託生がそう思った




としても誰も責めるものはいないだろう。








「江戸の将軍様が代わられたそうですよ。」





夕食時,託生は早速今日聞いた話を兄へと語って聞かせた。





「将軍様が?」





兄は,少し考え込むように首を傾げて託生を見遣った。





「はい。それでね。新しい将軍様は,鬼なのですって!」




「鬼?あ,こら託生・・・人参を残さない。」





やや興奮して話しながらも,手元では嫌いなものをこっそりとより分けていた弟に




聡明な兄は苦言を呈した。





「だって・・・。」




「まったく,いつまでたってもおまえは赤子のようだな。」





弟を叱りながらも,その目はいつも温かく慈愛に満ちている。




六つ違いの兄は,託生にはいつも甘く優しい存在だった。







託生に物心がついたときは,すでにこの兄と二人だけの暮らしだった。




両親とは生き別れているのか,死別したのか,それすら託生は知らない。





いずれおまえがもっと大人になったら話すからと言われていたので,そのうち兄が話してくれるだろうと




気楽に考えていたのだ。







人里はなれた寂しい寺に兄弟二人だけ





こんな暮らしが10年以上も続いている。




さらに不思議なことに,自分達兄弟は男であるにもかかわらず,女性の出で立ちをしており




里の者達には若くして出家した尼僧とその妹として認識されている。




現に兄は剃髪こそしてはいないものの




尼用の袈裟を身につけ短く肩までに切りそろえた髪の毛を頭巾に包んでいた。







少し不思議に思ってはいたものの,それなりに何か訳があってのことだろうと




また尋ねることで,身体の弱い兄を困らせるようなことはしたくないと考える弟でもあったので




特にそのことを気に掛けることもしなかったのである。













ただ一人の肉親である兄は,色白で整った容貌をしており,病がちなせいか儚げな風情がある。




だが,それでいて博識で学があり,武道にもめっぽう秀でていた。




そんな兄が託生にはとても自慢だった。






そういう託生自身も内気で控えめながら印象的な深い漆黒の瞳と豊かな黒髪の持ち主で




穏やかな気質と時折見せるはにかむような微笑が可愛らしいと評判だった。




さらに琵琶の名手としての評判は,このあたりだけでなく,江戸近郊の町まで轟いているとか,




まことしやかな噂が流れていた。







院主さまが高貴な白百合なら,妹ごの託生さまは可憐な雛菊のようと




里の者たち・・・特に若い男達であったけれど・・・に噂されているとは




託生自身,夢にも思わぬことである。










「託生は鬼が怖いか?」




「は?」





突然の兄の問いかけに,託生は大きな瞳をぱちくりさせた。





「鬼のいる江戸は怖いかと聞いておる。」




「江戸ですか?」





「ああ。」





暫く考えた後に託生は答えた。





「いいえ。怖くはありませぬ。」






本当に怖いのは,心が荒み鬼のように変化してしまった人間であろうと託生は思うのだ。




意外にも本物の鬼の方が心優しいのではないか?




なぜか,そう思える。







託生の答えを聞いて,兄はほっと一つ安堵の溜息をつくと,改めて向き直った。







「託生。江戸へ使いに行ってはくれぬか?」









人里はなれたこの寺が全てだった




託生の穏やかな日常は,




この日を境に失われるのである。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ