小説倉庫2

□まほろば
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曙が夜の薄墨を溶かしていく。幕が引かれるように色彩が蘇って、朝露に濡れた草木が風に揺れた。

眩しさに身を起こして、先日から引き取った子供の様子を見つめる。警戒心が強い猫のような彼は、今は健やかに寝息を立てて金色の髪を陽光に照らしていた。
酒を一人、手酌で飲んでいると不意に聞こえた啜り泣く声に、足を向けるとこの子供―――――ラインハルトは夢見が悪いのか眉を強く中央に寄せて、誰かの名前を呼んでいた。頬は濡れて、頻りに名を呼ぶ姿は、強く睨みつけた夕刻までのそれとは別人のようだ。縋るように手が伸ばされて宙を藻掻く。

小さな手を握ってやると、安心したのか眉間の皺は消えて、表情が和らいだ。

すうすうと聞こえ始めた吐息。安堵しきった顔。無意識に誰かを求め、泣いていたラインハルトが落ち着くと、自分までほっとした。硬い殻の中から出ないで、ぴりぴりと警戒しているよりずっと歳相応で、本当の姿を見れた気がした。
手を離そうとして、驚く程強く掴んで離されないので、嘆息一つし諦める。

そのまま、温かな体温に寄り添って眠った。

先に目覚めて、まだ手を握り締めていることに苦笑を誘われながら、再三の注意を払い起こさぬように指を離れさせる。睫毛が震えて、それでも起きることは無かった。自分の部屋に戻り、女中に朝餉の仕度を言いつけてぼんやりと白く染まり始める空を眺める。

今朝はどんな表情で噛み付いてくるのか、少し楽しみであった。


***


元服を迎えた後。何かと出仕すると女性に言い寄られるのか、恋文が届くのが増えたラインハルトは対応に困っているようだった。顔を顰め、自分には全くその気がないと、遠まわしに文を書くのも苦手のようで、ここ数日は参ってしまっているようだった。知恵熱のようなものを出して、ぐたりと机にしなだれかかっている。
金色の髪が燭台の光に照らされてきらりと眼を焼いた。

別に色恋沙汰など、遊びくらいで良かろうに。真面目で、そういったことに耐性が全くと言っていいほどない。そんなところが幼くも可愛らしい。

「無視しておけば、そのうち諦めますよ。」

「卿は酷い男だな。彼女らだって、本気であるからこうやって面倒な文だの和歌だの贈ってくるんだろう。」

ぐしゃ、と、また新しい和紙を握りつぶし、墨で指先が汚れたために眉を潜める。

「そんなことはありません。優れた異性と付き合うこと自体、彼女らの優越感を満足させているんですから。まあ、多数の女性と付き合えば独占欲だの嫉妬だのが何れ恨み事になって枝に結ばれることも御座いますがね。」

「それは卿の体験談だろう?」

疑問というより寧ろ確信した目付きで言い、大きく息を吐き出して筆を机に転がした。立ち上がって、片付けもせずに部屋へ歩いていく。その後について行った。

「まだ早い時間であるのに眠るのですか?」

「煩いな、別にいいだろう。仕事は終わった。他にやることもない。」

ぶすりと膨れた頬で言って、どすどすと床を踏み鳴らしていく。

少し揶揄うだけで此の反応なのだ。どうして突っつくのを止められよう。親友であれば揶揄うのも大概にしておけ、とか趣味が悪いとか言うのだろうが。この性分は一生かけても治せはしない。


***


それにしても、と腕の中に収めた温もりに眼を落として思う。溺れすぎだ。最早、手放せないほどに。

十九になっても女を知らぬ、純粋な彼は自分の与える愛撫に素直に反応していた。目元は紅く色づき、化粧もしていない素肌は桜色になっている。服を脱がせ、肌蹴た胸の頂は牡丹のよう。手の甲を口にあてて、喘ぎを殺している。
常には冷たい蒼の瞳も、今は熱でとろけだしそうに潤んでいた。

鬱金の君、と誰が最初に名付けたか。全く存ぜぬことだが褒めてやりたい。

まだ情交に未知な肢体。容易く上り詰めて、蜜を吐き出す。自慰も殆どしないためか、ぬとぬとと糸が引いては白い腹を汚した。

短く浅い呼吸。褥の上で緩く波打つ金糸。朱を薄く落とした肌。恍惚と潤む双眸。全て手に入れてしまいたい。

それでも、と奥歯を噛み締める。

寝言で呟くたったひとつの同じ名前。それほど心に残る相手とは、どんな者なのか。聞いてはいけないこと、と理性は叱り飛ばす。好奇心はにやにやと、己の自決を待っていた。
口に出して言わぬものを、聞き出して。何をするつもりか、と問われれば。
見つけ途端、首を切り落としてしまうかもしれぬ。そうすればこの美しい人は怒るだろうか。恨むだろうか、泣くだろうか。少なくとも、心は奪わせてくれないだろうと結論づけて、水に布を浸して拭いてやった。

己の手に染まらぬ。染めてしまいたくて、口の中に血を滲ませては苦笑に変えた。


***


殴られた頬が痛む。だがそれ相応のことはした。殴った相手の屋敷も知っているが、追いかけようとは思わなかった。らしくなく、足が竦む。

手篭にしようとして、果たせなかった。これがどちらに転ぶかはしれない。あの砂色の髪と眼の男は、宮中でもまこと誠実で優しいと聞いている。あれに惚れるのであれば、己の実力も其処までだということだ。

自分のような“酷い”男など不釣合いなのは最初から、誰に言われずとも身を沁みて知っている。だからこその漁色家の汚名を甘んじて受けていた。成りを潜めた、落ち着いただとかは好きに言わせておいてよい。身から出た錆。
そうではなくて、俺は自分がラインハルトにどう思われているかにだけ興味があるのだ。まったく、自分であるというのに御しがたい。

戻ってくるか、来ないか。月を眺めて、それが沈み、山の端が桃色や金色やらに色づいて、夜が明けたと気付く。まだじわりと頬は痛み、鏡を見れば見事な痣。女に張り倒されたときでも、こうはならない。可笑しくなって自嘲した。

かたん、と自ら屋敷の門の閂を外して待つ。霧で衣がずしりと重く湿った。その中に、来い乳白色に紛れる輝きを見つける。どうやら、帰ってきたらしい。喜びでどうにかなりそうだ。もしくは寝不足の見せる妄想かもしれないというのは、頬の痛みで否定出来るが、矢張り信じがたい。

腹がすいた、と暢気に言ってくるので、その用意をさせる。変わらない、と思った。恐らくそれは正しい。何があっても、彼は変わりないのだ。


***


最初は、気だるさだった。次第に熱が出始めた。
そのうち咳が出て、不味いかもしれぬと感じ始める。秋に差し掛かって、医者に見せたときには手遅れだった。喀血までして、諦めた。

なんとも間抜けたこと。不治の病で、斯様にこじらせるとは。

そう笑えば、見舞いに来た友人は顔を曇らせて叱った。

「弱気になるな、ロイエンタール。まだ何か方法があるかもしれない。」

「無いさ。医者も匙を投げた。大人しく死を待つことにしよう。俺には卿のように妻は無く、嘆き悲しむような恋人も居ない。」

「俺が泣いてやろうか?」

と、冗談なのか本気なのか分からぬことを言われて、更に笑ってしまった。勿体無い知己を得たものだ。これほど、情けない己でも見捨てないお前が眩しい。持って来て貰った酒を、二人で飲み交わす。

「流石は万病の薬だ、よく効く。」

「そうであれば良かった。・・・・なあ、ロイエンタール。俺はもっと効く薬を探してみる。」

「・・・したいのであれば、すればいいさ。好きなだけ。ただ、そのために身体を壊すなよミッターマイヤー。でないと俺が卿の奥方に恨まれてしまうのでな。これ以上、女の恨みを背負って閻魔大王に会いたくは無い。」

飲み干して、空になった杯に紅葉が落ちた。


***


空気のいいところで療養するといい、と勧めてきた相手に少しばかり驚いて、一緒に差し出された果物を受け取る手を止めてしまった。

「卿は、てっきり俺に早死して欲しいものかとばかり思っていたのだがな、ミュラー。」

「もうあれから五年も経っているのに、そんなこと思っていません。殴ったのは、短気でした。すみません。」

「いや、惚れた相手に無体を働かれれば頭に血が上って当然だ。俺とて、そのためにあんな真似をしでかした。」

相手が息を呑む。

「気付いていたのですか。」

「恋をする相手の眼というのはな、どうやら男だろうが女だろうが変わらぬようなのだ。一目見れば分かる。そうでなければ、第一、力いっぱい殴るようなことはせずに我関せずと通り過ぎるだろう。あの頃は、俺の方が階級も上だったからな。今では官職を辞して隠居中の若年寄になっているが。」

「貴方には敵いませんね。」

肩を竦め、療養先について事細かに説明を始める。それを相槌を打ちながら聞き、どうせやることも無し。一人で暮らすのも不自由はないので了承した。持ち前の世話焼きな性格のためか色々と世話役をつけると言ってくれるのを丁寧に遠慮した。

それから移り住んで、銀杏は全て葉が落ちた頃。霜が降りて俄に寒くなった日。

かたり、と閉めていた戸が開いて目を覚ます。まだ寝入ってそう時間は経っていない。狐狸の類でも忍び込んだか、奥山であればそれも有りうると身を起こす。まあ、入ってきたところで好きにさせておくしか無いが。

しかし襖が開いたので、身を起こした。盗人であれば、己も大人しく死を待つ身といえむざむざ殺されたりはしたくない。枕元に置いてあった小刀を握ると、まず白い素足が、次いで脹脛が見えた。

明るすぎる月に、照らされるかんばせ。くっきりと浮かび上がる目鼻立ちと、見下ろす蒼氷の瞳。

忘れ去ろうとしても脳裏に焼き付いた、焦がれた人影が其処にいた。もう、狐や狸が化けていても、それでもよかった。手を伸ばす。触れれば、まぼろしでないとあたたかみで知る。
息を吸えば、梔子のような香りがした。

「・・・どうされました、赤毛の者は?」

「置いてきた。一応、手紙はしている。見舞いに行く、と。」

頬に触れる指先。

「死ぬのか、ロイエンタール。」

「ええ、確実に貴方より先に死ぬでしょう。ですが老いでも無く病であるというのだから笑えますね。」

「伝染するか?」

「さあ、どうでしょうね。」

するといえば、帰ってしまうだろうか。しないといえば、抱きしめさせたままでいさせてくれるだろうか。やんわりと腕に収めたまま、そんなことを考える。

「うつらぬのだろう?好きな相手に、病を移し殺したいと願う卿ではあるまい。」

「何故、そのようにお思いなのです?」

「お前が教えたじゃないか。」

そうだったろうか。自分は何か教えたかと記憶を振り返ってみるが、どうも心当たりは無い。

「覚えてないのか、薄情者め。」

「申し訳ございません。出来れば、改めて教えて頂きたいのですが。」

「言わない。思い出せ。思い出すまで気になって、悔しくなって、死ねなくなるだろう?」

悪戯っぽく笑うが、それは何処か歪。相変わらず嘘をつくのは不得意な御方だ。

「私は、檻は開けておくと申し上げました。一度だけで構いません。一度、それを閉めさせてくださいませんか。」

返答は無かった。ただ、薄い紅色の唇が自分のかさついて冷えたそれに押しつけられた。


***


若鮎のように、白い肢体が跳ねる。仰け反る頚筋に舌を這わせた。
香油で濡れた秘部へ埋めた自身を、ねとりと迎えて締め付ける。畝り、身をくねらせて眉を寄せる様は壮絶でさえあった。

もう何度、注ぎ込んだか知れない。いっそ、尽きるほどに全てを注いでしまえたら。

腿の裏を持ち上げて、一層深く穿つ。悦びに震えて、吐き出される白濁。塗れ、汚れても失われない美しさに惚れ惚れとする。長く伸びた金の波の隙間から覗く、捉えて離さない蒼が、此方を見た。

喘ぐ合間、呼吸の狭間で名を切れ切れに呼ぶ。濡れていやらしくひかる薄紅。痕を残せぬ代わりに吐息まで喰らい尽くす。乱れた金の海に指を埋めて、絡ませた舌先は仄かに甘い。

爪先が褥に何層もの渦を描いて、背に回された腕が縋り付く。ひくりひくりと震える、朝顔の蕾のように淡い色の雄芯を握って、溢れ出す蜜を塗りたくるようにすれば鼻にかかった吐息は甘える仔犬に似て。濡れた眦に口付けて、耳介を食む。まるい肩が竦んで、触れ合った箇所は溶けたように熱い。
翼をたたんで、今一度戻ってきた小鳥。金色の猛禽でもある彼を、この時ばかりは独占した。
白白と、夜が裾を引いて眠り、朝が目を覚ますまで。

熱は潮のようにひいて、陽光に曝け出される素肌。残滓を取り去って、元のように冷たくも美しい容貌が其処に居た。
寝そべり、微睡む己の額から頬を撫でて、するすると離れる。

「何か願いはあるか?」

「殺してくれと言えば、貴方は小刀で頸を掻ききってくださいますか。」

「俺は人殺しにはなれない。」

敢無く却下され、苦笑した。

「では、これ以上は何も望みますまい。夢のような時間を過ごせましただけで、身に余るほど幸福に指先まで浸されていますよ。」

「そうか。」

無邪気な子供みたいに笑う。本当に、掛け値なしに貴方は美しいと熟熟思う。

「好きな花はあるか。」

「あまり詳しくは無いですがね、・・・白梅は好きですよ。」

貴方みたいだ、とは言わないでおく。彼は思案顔で、まだ季節に到達していない花を口の中で復唱しているらしかった。

「それがどうかしましたか?」

「お前が死んだら墓前に手向けてやろうと思って。」

「死ぬこと前提ですか。」

「誰だって死ぬ。俺も、お前も。早いか、遅いかの差だ。でも、俺はまだ死なない。」

あの頃と違う一人称で、あの頃と同じ瞳をして言う。

「沢山、たくさん手向けてやる。そうすれば寂しくないだろう、ロイエンタール。」

「それは嬉しいですね、では指きりでも致しましょうか?」

冗談半分で言ったのに、小指が絡められた。そういう素直な所は、年齢を重ねて行ってもそのままなのだろう。老いるということが、想像出来ないが。
するりと衣を纏って、見送る己を振り返らずに去っていった。赤々と陽光が大地を染めていく。

恐らく、梅の花を見るより先に、不如帰のように己は消え去るだろうが、それでも墓に貴方が訪れて花を持って来てくれるのであれば寂しくはない。

檻から飛んでいった金色の鳥の羽撃きは、もう聞こえなかった。


ENDE.

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