小説倉庫5

□是は色無き勝負
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譬えば。
磨き上げられた大粒の金剛石を太陽に挿頭せば斯様になるのだろうか、と彼は考えた。透き通った、それでいてぎらりと容赦なく網膜に焼き付く光景だった。

緩やかに口端を三日月のように吊り上げて、目を細く潰した表情は、此れから喉首目掛け微塵の慈悲もなく顎を食らいつかせる手前の獣のように獰猛ではあったが、同時に、如何仕様もなく芯から細胞という細胞を震わせて甘やかな眩暈を引き起こす。そのような錯覚さえ覚えるのだ。

相手の細い指先が、見事な彫刻を施された大理石の駒をひとつ摘みあげる。

自らの陣地の盤上に残っていた漆黒の王は、純白の女王の振り上げた鎌でその首をもがれて呆気なく倒れた。

ことりと駒が軽やかに倒された音で、漸う意識が自分の支配下へと戻ってくる。

勝者は惨めな敗者を、薄らと笑みを湛えたままに見つめて、その蒼氷色(アイスブルー)の水晶体に閉じ込められたように惚けていることに小さく息を零した。どうも可笑しいようで、杯に残った葡萄酒を一息に飲み干しても、その笑みは色濃く残っていた。

「残念だったな。あともう一歩であったというのに。」

些ともそのような響きをせずに鼓膜を震わせる聲さえ、極上の調べのようだ。

それほど酒気を煽ってもいないのに、忽ち皮膚が紅潮したのは、きっと酒でなく彼の笑みに因って、酔うたのだと心の中だけで言い訳する。

確かに彼の言う通りであった。自分は相手を追い詰め、あと一手で勝利の女神が微笑んでくれるはずであった。しかし、結果は真逆であり、微笑を浮かべたのは紛れも無く対面している相手なのだった。

一体、何時の間に形勢逆転されていたのか。未熟な自分を見つめる相手に、けれど不快な感情は湧き起こらない。

自らの敗戦を認め、盤上に残っていた駒を全て片付けた。

とは云えど、それは立体映像であったのでボタンひとつで消え去る。

一瞬で消失した、その盤上と同じく、己の浅ましい感情も消え去ってくれれば苦労は無い。

獲物は利口でこの上なく美しい。掴んだと思えば風か水のように指から摺り抜けていく。勝てる相手ではない。しかし仕留める可能性が零でないという往生際の悪さが、何がなんでも譲れぬと意地を張る。

「もう一局してみるか?」

どうする、と問いかける。
この問いに間違えば、噂で聞いたことのある神話の獣のように、命を奪われるのだろうか。つい今し方、倒された黒のキングのように。
それでもいいと半ば夢見心地に思う。彼の手であるならば、逸そ其れもまた完美なものだ。

ならば徹底的に。些かの躊躇も迷いもなく叩きのめして欲しい。

「今日は、これで終いに致しましょう。」

我が皇帝、と彼は言った。舌に転がすこの発音も、砂糖や女子供が好むような菓子より万倍も甘い。

貴方がこの腕に転がり落ちてくることは無い。
貴方が私の瞳を直視することは無い。

だが、それでも。

貴方が貴方であろうとする限り、そうやって地平線に沈む紅玉より眩い存在である限りは、と男は無音で言った。

(貴方という餌を目の前にちらつかせて、勝利すれば身を差し出すと言っているならば、いつかその身を亡霊から掠めることを赦してくれるというならば。)

億が一にという絶望的な可能性であっても。
縋り付く他無い。

愉快そうに笑んだままの相手に、同種の笑みを見かけ上は返して、一礼する。

焦がれ焦がれて、その焔の熱さで身が滅ぶとも。

扉を閉めて、唇だけを動かした。

震えない声帯が言祝いだ愛を、耳で拾うことのない愛おしい彼は、きっと扉の向こうで自分ではない男に同じ言葉を言っただろうと嗤いながら。


Ende.

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