小説倉庫5

□蝶
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ひらひらと鱗粉を纏う刎が空気を柔らかく動かして通り過ぎる。子供の頃、夢中になって虫網を手にして追いかけた。男を拐かすことを知る貴族の淑女のスカートのように、或いは鬼ごっこに興じる無邪気な少女のように、刎が翻っては、近づき、遠ざかる。
木陰を通り過ぎ、迷い込んだ森の中。ようやく手にした網で捕らえたその蝶は、小さな手の中で息絶えて唯の一個の置物と変わりなくなる。途端、鮮やかに映った刎の色に陰りが生じてしまった。

思うに、生きているからこそその美しさが鮮やかに映えるのだろう。命を無くした置物は、生前のような魅力を感じなくなるから。

砲火飛び交う戦場で、退くことを許さず踏みとどまり瞳を一際輝かせて号令を発する貴方は、それと同じ色の魅力を宿す。
戦いでこそ、輝く美しさ。

だから惹かれた。その瞳の奥に燃え盛る焔に焼かれて命が尽きても悔いなど無い程に。

貴方にならば殺されても良いと、そう思う程に。


***


空調の効いた部屋で、晒される膚。黒い軍服と相反するその際立つ白さは生気を欠く。
精巧な陶磁人形を、もしくは大理石で出来た彫刻を連想させる白さ。先程までの、汗ばむ熱など悉く消え失せて匂いすら感じない。
襟の下に潜り込んだ黄金色の巻き髪を払い出し、釦を留めていく。その背中を包むように抱き込めば、指を止めて目だけが此方に向けられた。

突き刺すような冷気の一瞥。
苦笑し、離した。愛撫を許すのは、一時だけ。
睦言を囁く暇も無い。

突き放すように背を向けて、無言で退出を命じられる。それに従い、部屋を出た。その間際、視線を向けたが貴方は此方を見向きもしない。

乱れた寝台だけが、情交を物語っていた。


***


切欠が何であったのか。実に些細なことだったように思う。

片翼を無くしてからというもの、何処か以前より堅く冷たく変質した覇者は自らを追い込むかのように激務に励み、そのために体調を崩していた。作戦も、何処か自滅を望むのかというのが見え隠れして、本心は定かではないものの、このままでは危ういと見えた。
臣下として、主を諌めるのも忠義のひとつだろう。その裏側に、そうでない心があったとしても身を案じているのは真実だった。

体を休めるようにと投げた言葉は、蒼氷色と評される瞳に弾き飛ばされる。余計な世話と短く呟き、取り付くしまもない。しかし敬礼をして引き下がる間際に、その真白い手が伸ばされて戯れに襟元を掴まれた。間近で覗き込む双眸に己の左右で異なる色をした眼球が写る。

「卿でも奇を衒うということがあるものなのだな、ロイエンタール。女性との距離は慣れていようが、同性と至近距離というのは中々経験も無かろう。」

悪巧みが成功したと言いたげな愉快そうな笑みは、実に無邪気なものだった。

「閣下、」

「私は寒いのだ、ロイエンタール。」

瞠目する。時間が停止したようだった。言葉の意味を取り違えてはならぬと律しようとしても、それが出来ずに失敗する。勘違いだと、思いあがりだと誰が言おうと、正すことは不可能だった。
寒いならば温める術を、ひとつだけ知っている。

それは凡そ、正気とも思えない。
何を生むこともない、関係だと言うのに。

足を踏み入れて、腕を伸ばして、その頬に手を添えた。

抱いた躰は熱かった。吐き出す吐息は甘く、獅噛みつく指先が傷を生んでも痛みすら甘かった。水滴を帯びてゆらめく蒼氷色も、波打ち広がる金糸も、真白い肌も全てに虜になった。
心を丸ごと攫われた。
しかしこれは、いうなれば最初から実らぬ恋慕。成就しようもない。

彼の寂しさを、虚無を、紛らせるための熱火だ。

口づける度、胸の内に澱のように沈殿する苦しみ。それを知っていて、尚も手を伸ばす。棘があると知っていても、触れずに居られぬ薔薇のようだった。

匂い立つ香りに引き寄せられ、甘い蜜は毒が滴る。喜んで其れを、飲み下した。


***


遠ざかっていく生の息吹。近づく死神の足音は聞こえやしなかったが、それでも着実に己は死にゆく身には違いなかった。
どうせ叶いはしない恋。
そう分かっていても、それでも諦めることも出来ずに彼を愛した。あの皮膚の白さと熱さだけは、きっと忘れることなど出来ない。

ひら、と何かが視界を過ぎる。
遂に幻覚まで見え出したかと己に苦笑した。

目で追えば、ひらり、ひらりと刎を広げて羽撃く一匹の蝶が見える。

黄金色の鱗粉を散らして、それは指先にとまった。

星の粉のようにきらきらと煌めき、刎を休める。

自分の名を喚ぶあの人の声が聞こえたようだった。凛として、気高く響いた声。
その音律で名を呼ばれれば、形すら見えない魂ですら震えるようだった。細胞の一つ一つが、歓びの声を上げるかのように。

「マインカイザー・・・・、」

貴方の傍らに立つことは出来なかった。貴方の心の支えには及ばなかった。けれど、私は貴方を愛していた。最早、伝えることも不可能な言葉だが、欠片程の感情でも、遠く離れた星で空を眺めているであろう貴方には、届くだろうか。

指先にとまっていた蝶が再びふわりと舞い上がり、何処かへ翔んでいく。見送り、重たい瞼を下ろした。


***


報告を終えて退出する部下に背を向けたまま、窓の外へ視線を投げる。その癖、何も見てはいなかった。
もうあの美しい青と漆黒の瞳を眺めることは叶わない。そうと知って、痛む筈のない胸がずきりと疼く。

とんだ偽善者だ。何が皇帝だ。利用した挙句、この様か。
愛してもいないくせに、嘆くのは止せと己に嘲笑を浴びせた。

そう、愛してなど居なかった。もう二度と誰も愛さないと決めていた。それなのに、踏み越えられた線。乱される心の内。なんたる未熟者だろう、おれは。

鼓膜の奥深くへ残る、低い魅了的な声色が呼ぶはずのない自分を呼び、愛を囁く。
なんとも都合のいい幻聴だった。

「・・・ロイエンタール、先にヴァルハラで待っているがいい。」

もしかの天上でおまえに会うことが出来たならば。その時は、はぐらかしてばかりいた本心でも明かしてやるとしよう。
認めるのは悔しいが、おまえの勝ちだ。

頬を伝う雫は、おまえのもの。おまえだけのものだ、ロイエンタール。



Ende.

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