小説倉庫4

□七色の橋を渡って
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行き成り頭上に何か硬いものが衝突し、目から火花が散った。頭頂部を抑えてしゃがみこみ、呻いているとクスクスと笑い声がする。
振り仰げば、枝に人影。落ちれば怪我どころでは済まない高さだった。

ぽかんと口を開けていると、木漏れ日に照らされた金色の髪が輝いて、王冠のように煌めく。

ころころと地面に転がった物の正体は、齧った痕跡のある林檎だった。

「手が滑った、済まないな。」

そう言って、朗らかというよりは寧ろ悪戯が成功した子供のように笑って、ローエングラム王朝初代皇帝、ラインハルト・フォン・ローエングラムは器用にするすると枝を伝い折りた。
ヒヤヒヤしつつそれを見終えて、嘆息する。

「陛下、斯様な事をされては将兵が胆を冷やします。・・・今日はキスリング親衛隊長は不在なのですか?」

「どうしてそう思う?」

「彼がいれば、貴方にそんな真似はさせないでしょうから。」

彼は頷いて、服についた枝葉を払い落とした。

「今日は非番らしい。」

「どうして、あんな危険なことをなさっていたのですか?」

「案ずるな、木に登って墜落死、というのは予の予定には無いからな。そう目くじらを立てるな、ミュラー。何時も地上に居れば、たまには違う目線で物事を見たいと思わぬか?」

「小官は、地に足の付いた生活の方が安心致します・・・・。」

首を振り、もう一度溜息をつく。

「そうか、それは残念だな。」

そういう割には、あまり落胆した素振りは見えない。さっさと庭を横切って、執務室へ向い始める。その後についていった。ひとつは、逃げないように。もうひとつは、枝をおりる際に怪我をしていないか、という確認のためだ。
しかし後者については、杞憂に過ぎなかったようでしっかりとした足取りで歩いていく。
部屋に到着すると、丁度陛下を探していたらしい、エミールが安心したように駆け寄ってきた。

「陛下!何処へ行かれていたのです?」

「少し外の空気を吸っていた。」

それだけではないが。

「今、紅茶をいれてまいります。あ、ミュラー提督も御一緒されるのですか?」

「あ。いや、私は別に」

「先程の詫びだ。飲んでいくといい、エミールの紅茶は美味しいぞ。」

椅子に腰を下ろし、脚を組んで彼は言った。エミールは此方の返答を待たずして出ていってしまう。
諦めて、同じく椅子に座った。

「打った場所は、痛むか?」

「いえ、あまり。」

僅かに痛む程度で、大したことはない。やがて紅茶が運ばれてきて、目の前に置かれた。流石に皇帝のために用意された茶は格別なのだろう。金色の輪のようなものが見える。

一口啜り、口元を綻ばせた。

「美味しゅう御座いますね。」

「そうだろう?何事にもコツというものがあるが、予には真似出来ぬ。」

「へ、陛下はこんなことを真似されずとも宜しいのです!もっと、なさるべきことがありますし、それは私には出来ないことです。」

エミールが顔を真っ赤にして慌てたので、皇帝は可笑しそうに苦笑して肩を揺らした。

「そう言わずともよい、エミール。敢えてやらずともよいことや、向かぬことをやろうとは思わぬ。必要であれば、話は別だがな。」

椅子に深く凭れて、足を組み替える。緩やかに瞬きすると、長い睫毛さえもが陽光を弾いた。蒼氷色の視線を琥珀の水面に注ぎ、口元に微笑を湛えたままで淵に指を滑らせる。

「似たようなことを、過去に言われたな。」

ぽつ、と独り言のように零した。エミールには聞こえなかったようで、首を傾げる。何でもない、と言って紅茶を飲み干した。その言葉を拾い上げた自分は、誰に言われたのか、なんとなく察して、カップを傾ける。
恐らく、彼に近しく接することのできた、唯一無二の存在であるあの青年だろう。

あの時に垣間見た脆さと、慟哭。今は、欠片も伺えない。分厚い殻で、覆い隠された内面は、まだ傷から止めどなく血を滴らせているのだろうか。

カップを置き、礼を言って部屋を出る。
死者には勝てない。それでも、胸に抱いた感情を消し去ることは容易ではなかった。


***


手を握る。少し痩せたか。口から物をとることも碌にできていないのだから当然だろう。抱え上げたら、羽根のように軽いのかもしれなかった。

高熱に倒れ、判明したというには余りに惨い現実にどれだけ絶望しただろう。もう長くはないと聞いて、されど彼は微笑んですらいた。些か、不満そうではあったが。ふ、と。窓辺を見つめては微笑を形作り、穏やかな雰囲気を纏っている。
氷のように冷たく、刃のように鋭かった瞳は、燃え盛る焔のあとに残された灰のような仄かな温もりだけを宿していた。
うとうとと微睡み、時折目覚めてはまた眠りに落ちる。意識を失う、というほうが正しいだろう。

皇妃や、彼の姉君の必死の看病も、医者の薬も何一つ効果の無いまま、無情にも時間だけ過ぎて、彼の命の砂時計も刻一刻と減っていく。あと、どれだけ残されているのか、知りたくは無かった。

部屋を訪れたとき、病人は起きていて、喉が渇いたと零した。エミールが擦り下ろした林檎の果汁を持って来る。それを受け取り、唇を湿らせて彼は此方を向く。

「そういえば、以前、卿の頭にこれを落としたな。」

くす、と笑う。つられるように苦笑した。

「はい。あの時、最初は陛下だと気づきませんでした。」

天使かと、思ったのだ。木漏れ日を浴びた金糸は、きらきらと光っていて、背中に翼があっても不思議には思えなかった。何処ぞの悪戯な天使が、やってきたのではないか、と。

そう言ってしまえば笑われてしまうだろうから、言わないでおく。

「あの時の間の抜けた顔は、忘れられぬ。本当に、豆鉄砲を喰らった鳩のようだった。」

「それだけは御勘弁を。」

「そうだな。どうせならば、予は皆の笑顔を覚えておきたい。だから、あまり哀しそうな顔はするな、ミュラー。」

腕が伸ばされ、頬を包む。知らず、流れていた涙を、陶磁のような指が掬いとった。

「申し訳御座いません、陛下。」

「鉄面皮のオーベルシュタインやら、部屋に入るなり猛虎から猫のように萎れるビッテンフェルトよりはマシだが。予が居なくなったとて、やるべきことはあるだろう。不甲斐ない様子を、他に見せるなよ?」

あやすように、そっと抱きしめられ背を摩られた。嗚咽を飲み込み、それでも体が震えるのはどうしようもない。

「卿は帝国の将兵を指揮する上級大将の主席だ。予が亡き後は、元帥にもなる。謂わば、帝国の要だ。その鉄壁と呼ばれる如く、あって欲しい。それと、―――私用になってしまうが、皇妃と大公を頼む。」

はっとして顔を上げる。穏やかに笑んで、それでも少し寂しそうに彼は言った。

「予は、いや、私は家族というものは姉上以外よくわからない。親というものは、尚更だ。父としても、夫としても不出来だったと、そう思う。アレクは、恐らく父の顔や声など忘れてしまうだろう。だが、卿らは違う。だから、二人と、帝国を卿らには頼む。」

「御意、に御座います。微力ながら、尽くさせていただきます。」

「・・・・その言葉を聞いて、安心した。」

ありがとう、と彼は礼を言って、もう一度名を呼んだ。

「今しばらくは、泣くといい。此処には、予と卿以外には誰もいないから。」

それ以上、何も言えずにただただ奥歯を噛み締めていた。


***


何処かの御伽噺の姫君のように、棺に敷き詰められた白百合の花弁。あの物語では、王子の接吻で姫は眠りの呪いから解放される。だが、これは夢物語ではない。自分も、王子などではなかった。
目覚めてくれるのであれば、口付けだろうが何であろうが、やってみせるのに。

「・・・拒むことが出来ぬ貴方に、こういうことをする私は卑怯でしょうか、陛下。」

勿論、答えは無い。
沈黙の幕は、下りたまま。上がることは決して無い。

激しく勇ましかった貴方。その野望を、約束を果たして、戦い続けた貴方が、こんな狭いものの中に押し込められては、さぞ御不満だろう。
屈みこんで、膝をつく。

「―――― Mein Kaiser,」

誰もが、貴方をそう呼んだ。限りない敬愛と忠誠心と畏怖とを篭めて。

もう、次からは子に引き継がれていく。

「Ich …liebe, ……dich.」

そっと、触れるだけの口付けをして、温もりが抜け落ちたような亡骸を見つめた。嗚呼、矢張り貴方は目覚めないまま。予想していても、胸の奥が切りつけられるように痛む。

それでも、貴方は不甲斐ない姿は見せるなと言ったから、今度は無様に泣くような真似は見せない。ちゃんと上手く笑えているかは、自信はないが。

踵を巡らせて、外に出る。雨は止んで、日が顔を雲間から覗かせていた。虹が架かり、鐘が鳴る。
貴方は今ごろ、あの七色の橋を渡って愛しい者の所へ向かっているのか。嬉しそうに、微笑んで。

掌を握り締めて、歩み出す。
もう、あの日見た木の枝にも何処にも、恋しい姿は見えないのだと言い聞かせ、ともすれば歪みそうになる視界を押し止めながら。


Ende.

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