その他

□寄り添う理由。
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ある日のこと。
名前はいつものように、蒼世の私室のドアをノックした。
ただ、いつもと違ったのはノックに対して返事があったことである。

「名前か。入れ」

と、名前を呼ばれたことにドキリとした。

ドアを開けると、蒼世はデスクで作業をしている。
入ってきた名前に視線をやったかと思えば、
そのまま黙って見つめている。

「そ、蒼世さま、何か…?」

思わず、訊いた。
会話らしい会話は珍しいので、少し声が震える。

蒼世はふむ、と唸って言葉を探すと、そっと口を開いた。

「私は、一番初めに言ったな。
『好きにしろ』と。
なのに、どうしてお前は、私から離れようとしない…?」

「それは…私を離したいとお思いになっている、ということでしょうか」

「違う」

話が読めない。
名前はまた不安げに、夫を見つめた。

「私達は互いに、互いのことを知らない。
家が決めた結婚だから、愛情だってない。
それなのにどうして、という純粋な疑問だ」

と、蒼世は言った。

聞いているうちに、名前の表情から硬さが消える。

「簡単なことです。
私たちが…夫婦だからです」

微笑みながら言うと、次は蒼世の表情が曇った。

「他人のことを知らないのは当然です。
でもそれは、今から知っていくのでも遅くはありません。
知っていくうちに愛情は生まれるかもしれませんから、今、愛情がないと決めるのは早計です」

名前はじっと蒼世から視線を逸らさず、続ける。

「私たちは夫婦ですから、その努力をするべきと存じます。
その上で、蒼世さまが私を離したいとお思いになれば…それが時だということでしょう」

言い終えてから、名前は顔を赤くした。
言い過ぎた、とも思ったし、慎みも何もあったものではない。

蒼世は初め目を丸くしていたが、やがてふっと柔らかく笑った。

「…お前がそんなに話すとは、知らなかった」

「申し訳ございません…」

「お前がそういう考えをもっているとも、知らなかった」

「え…」

蒼世がゆっくりと立ち上がるのを、名前はまだ視線が逸らせずにいる。

「今から知っていく、というのも面白いかもしれないな」

「は、はい…。
お勤めも終えて、しばらくはゆっくりするお時間があると…」

「ああ。遠回りして、待たせはしたが…」

蒼世はぐいっと名前を引き寄せ、耳元に囁く。

――「私と夫婦になろう」

名前は、長い結婚生活のなかで初めて、新妻としての笑みで頷いた。
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