その他

□しとどに、雨の香
1ページ/2ページ


『本当に、お前は駄目だな』

安倍蒼世の秘書として仕事をするようになって数ヶ月。

何度目かのその言葉に反抗して、名前は屋敷を飛び出してきた。

これでも頑張っている―とかいう言い訳が言い訳にしかならないのはわかっている。
実際、名前は些細な失敗を繰り返していた。

今日は、その失敗を指摘してきた武田と口論になり、蒼世に怒られたのだ。

『隊長にはお前みたいな愚図は相応しくない』

と言ったのは武田。

名前はそのときこそ反論したが、少し頭が冷えた今では飲み込むことしかできない。

「はぁ…」

と大きなため息をついたとき、頬にポツポツと雨粒が当たりはじめた。

雨はしだいに強くなり、名前は髪も服もビショビショになりながら手近な軒先に逃げ込む。
勢いで出てきたから、傘は持っていない。

『本当に、お前は駄目だな』

また、蒼世の声が頭に響く。

無性に泣きたくなって、軒先にしゃがみこんだ。
髪から落ちる雨が頬を濡らす。

そのときだった。

「本当に、お前は駄目だな」

やけにリアルな、蒼世の声がした。

名前が恐る恐る顔を上げると、そこには呆れた様子の蒼世が傘を片手に、立っていた。

「……蒼世、さま」

「今日は雨が降ると、芦屋が言っていただろう。
なぜ、傘を持って出ない?」

「……あ、申し訳ありません」

名前は戸惑いながらも謝罪を口にする。
彼の元で働きはじめてから、何百と言ってきた言葉だ。
しかし、蒼世の返事は意外なものだった。

「……いや、そんなことが言いたくて迎えにきたわけじゃない」

無愛想に言うと、無理矢理名前を立たせ、自分の傘に引き入れた。

「そ、蒼世さま…!いけません…!」

名前が焦って言うのにも構わない。
黙って館への道を行こうとする。

いけません、というのは何も、相合い傘に対してだけではない。
自分を傍におくこと自体がいけない、と言いたかった。

しかし、名前はそれを言わせてもらえないまま、彼の歩幅に合わせて歩く。

しばらく沈黙が続いたとき、蒼世がふと、口を開いた。

「…俺は、傍にいる必要がない者にまで傘を差し出すほど、優しい男ではない」

雨に溶けてしまいそうな声は優しさに満ちていて、名前はドキリとした。

彼女が、蒼世の反対側の肩が濡れているのに気付いたのは、館に着いてからだった。

また謝罪する彼女に、

「本当に、お前は駄目だな」

と、蒼世は笑った。
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ