あやさきけ2

□呼捨
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 ちょっと昔の話をしよう。

 僕こと綾崎ハヤテがそう前置きをすると、眼前でちょこんと座る愛娘は、可愛らしく小首を傾げた。

「? 昔ってどれくらいの?」
「そうだねぇ……僕とヒナギクが留学する直前くらいかな」
「結構昔だね」
「アイカがヒナギクのお腹にいないころだからね」

 ほえー、と小さな口を開けて驚く愛娘――アイカに、思わず笑みがこぼれる。

 そもそもなんでこんな話をするかというと、理由はいたって簡単。
『パパとママはいつから名前で呼び合っていたのか』という素朴な疑問を、アイカがしてきたからだ。
 僕とヒナギクは出会った当初から名前で呼び合っていたのだけど、そのことを伝えると、
『違うよ! 呼び捨てで呼び合うってことだよ!』という可愛らしい反論が返ってきたので―――冒頭に繋がるのである。

「わくわく」
「あー……アイカ? こんなに冒頭の文長くなってるけど、実際この話は大して山もなければ、長さもないからね?」

 まるで壮大な物語をこれから聞くかのような態度のアイカに一応忠告をしてみたけど、それでもいい、と言われたので話を続けようと思う。

「ならいいけど……本当になんでもない話だよ?」
「いいから!」
「了解です、お姫様」

 こほん、とわざとらしく咳をして。

 時は約十年前。 アイカが生まれる前。
 正確には、僕がヒナギクに、時計塔でともに留学することを伝えた日の、後日―――。



『呼捨』



「そろそろだと思うのよ」

 喧嘩のような、痴話喧嘩のような、サプライジングな告白をした翌日。
 留学先へ向かう飛行機の中にて、隣に座るヒナギクさんがそんなことを言い出した。

「? 何がですか?」
「それよ、それ」

 主語のない言葉に、僕は首を傾げる。

「それって……何がです?」
「だから、それだってば」

 ちなみに今僕達は絶賛フライト中。快適な空の旅である。
 三度、質問を返す僕に対しヒナギクさんの不機嫌そうな言葉が返ってくるが、その表情は窺えない。
 なぜならヒナギクさんはでっかいアイマスクをしているから。
 窓から見える景色はとても美しいのに、絶対に見るものかという、彼女の意思の強さを表すかのようなでかいアイマスクをしている。

「ヒナギクさん、確かに僕は鈍感ですけど、流石に『それ』だけじゃわからないです」
「……むぅ」

 ヒナギクさんが極度の高所恐怖症であるのは百も承知であるし、飛行機内でのヒナギクさんの姿は安易に想像出来ていた(眼前というか眼隣の姿がまさにそう)。
 ただ、その彼女からの質問までは想像していない。むしろ機内では会話など二言、三言くらいだと思っていた。
 僕がそういう意味を込めて言葉を返すと、ヒナギクさんは言葉に詰まったように小さく唸った。

「……なら、仕方ないわね……」
「仕方ないというか……なんかすいません」
「良いのよ。……そうよね、はっきり言わないと全然気づかないもんね、『ハヤテ』は」

 そう呟いてヒナギクさんは溜息をついた。
 アイマスクで表情が見えなくても、今度は容易に想像がつく。
 恐らく呆れ顔だ。
 ところで今、『ハヤテ』と呼ばれた気がするのだけど……聞き間違いだろうか。

「で、ヒナギクさん。『それ』って何なんですか?」

 恐らく聞き間違いであろう、そう思うことにして話を促す。

「私達って、これから一緒に留学するわけよね?」
「はい。短期留学しますね」

 ヒナギクさんは短期留学。僕は短期の執事研修として。
 まぁそれでも一年以上は留学するのだから、短期、と言えるかは別だけれど。

「当然一緒に住むわけじゃない?」
「そ、そうですね」
「そうよね」

 僕とヒナギクさんの住居は、お嬢様が用意してくれた家を借りることになっている。
 お嬢様の所有物だから僕達が家賃を払う必要もないし、ヒナギクさんの通う大学からも近い、まさに最高の物件だ。

「つまり同棲よね?」
「……ダイレクトに言われると凄く恥ずかしいんですけど、そうです」

 これから好きな女の子と同じところに住む。
 その実感が今更やってきて、思わず顔が暑くなった。
 うわ、凄く緊張してきた……。

 そんな僕の様子も、アイマスクをしているヒナギクさんは見えない。
 だからこそ、気にした様子もなくヒナギクさんは少し声を荒げて言ったのだ。
『それ』が指す意味を。


「じゃあ、敬語なんか使うな―――!!」


 ……え?

「敬語……ですか」
「そう! 敬語! もしくは丁寧語!」

 僕の言葉に変わらぬ声量でヒナギクさんは答える。

「恋人なのに! 一緒に住むのに! どうして私に対していつまでもそんな丁寧な言葉使いなのよ!」
「え、いや、でも……」
「いやもデモもストもない!」

 いやってなんなのだろう。
 あとちょっと古い、と思ったことは言わない。
 ヒナギクさんのボルテージを上げるだけだろうし。

 しかし、丁寧語、かぁ……。

「……じゃあ聞きますけど、それこそ今更なのでは? 付き合い始めてからも、僕ずっとこの口調でしたよね?」
「う……そ、それはそうなんだけど」

 気が置けない友人からいきなり自分に対して敬語を使え、と言われたシーンを想像してもらえれば分かりやすいかもしれない。
いきなりそんなことを要求されても、簡単には対応できないだろう。
そんな気持ちが、今の僕である。
 出来る人がいたとしても、それは僕じゃない。

「それに、口調を変えろなんて急に言われても対応し辛いというか……」
「言いたいことはわかるの。……でもね、やっぱりハヤテにはその口調を直して欲しいのよ。彼女としては」
「言いたいことは分かりますけど……」

 いきなりそう言われても難しいものは難しいのだ。
 言葉使いを変えろなど、僕にとってみればそれは態度を変えろと言われているに等しいことなのだから。
その上相手は僕の大好きな女の子である。

「……ダメ?」
「うーん……」

 小さく唸りをあげながら、僕は気づく。
 そういえば、さっきもヒナギクさんは僕の名前を呼び捨てにしていた。

「……あぁ、なるほど」

 つまり、それがヒナギクさんの、小さなサインだったのだ。
 要求するだけじゃ駄目だから、まずは自分から実行しようという。
 素直に頼めなかったから、さり気無くサインを出して、それでも僕が気づかなかったから、不機嫌に要求したのだ。

 なんだ、全然いきなりじゃないじゃないか。
 結局僕の、鈍感が原因だ。

「ヒナギクさんの言いたいこと、分かりましたよ」
「……分かってくれた?」
「はい」

 僕が答えると、ヒナギクさんは安心したように溜息を吐いた。

「なら―――」
「でも、やっぱりいきなりは難しいですよ」

 だけど、あくまで『理解した』だけ。
 ヒナギクさんのように、直ぐに実行に移せるほど、僕は人間出来ていない。

「え……?」
「いやほら、やっぱりどこかで躊躇しちゃうんですよ。今までこの感じでやって来たので、いきなりそれを変えろと言われても簡単には出来ないです」

 がっかりしたような呟きがヒナギクさんから聞こえてきて、少しだけ胸が痛んだ。
 そりゃ、簡単に変えられることなら変えてやりたい。
 彼氏としては、ヒナギクさんの笑顔を見ることが最大級の喜びなのだから。

「じゃあ……無理? やっぱり出来ないの……?」
「そうですね……」

 不安そうなヒナギクさんの声を聞くたび、胸に痛みが走る。申し訳なさと痛みで、まさに胸いっぱいだ。
 口調を変えるだけ、タメ口になるだけで良いのではないか。

 躊躇う理由がどこにある。

簡単なことなのだろう、しかし簡単ではないのだ。
 常に下手、下手で生きてきた人間に、そういうことを簡単にすることは出来ない。
 漫画や小説のようにはいかないのである。

「口調はこの先ゆっくり直していくとして……とりあえず」

 でも、僕だって男だ。
 少しは、彼女の願いを叶えるために努力したって良いだろう。

「―――ヒナギク」
「ふぇ?」

 だから僕は彼女の名前を呼んだ―――呼び捨てで。

「ハヤテ……君」
「君は要らないんでしょう?」

 彼女が大きなアイマスクの下から、窺うようにこちらを見た。
 それだけ驚いた、ということだろうか。自分から要求したのに。

「話し言葉を直ぐに変えることは難しいですけど、彼女の名前くらいは、ね」

 呼び捨てで呼べるくらいの度胸ならありますので、と僕は苦笑とともに付け加えた。

「だからこれからも長いお付き合い、お願いしますね」
「…………うんっ!」

 アイマスクの下からでもはっきり分かるような笑顔で、ヒナギクは笑った。
 それを見ると、やっぱりやって良かったと思う。

「さて、じゃあ取り敢えず問題は解決した、ということで良いんですかね?」
「うん。今はそれで満足してあげる」
「それは助かります」

 ヒナギクが満足してくれて、一安心だ。
 折角これから楽しい同棲生活が始まるというのに、喧嘩などまっぴらごめんだ。

「はぁ……なんだか安心したら眠くなってきちゃった」
「寝ますか?」
「うん……」

 安堵の溜息を吐いて、ヒナギクが言う。
 高所恐怖症なのに、大分無理をして会話を続けていたのだろう。
 安心と疲れから眠くなるのも当然なのかもしれない。

「ごめんハヤテ、少し休むね」
「ええ。ゆっくり休んでください、ヒナギク」

 原因の大半は僕に起因しているだけに、やはり申し訳なく思う。
 再びアイマスクで表情を隠したヒナギクに言葉を掛けると、

「……?」

 左手を握られた。

「ヒナギク?」
「……怖いから、到着するまでずっと手を握ってること。良いわね?」

 僕が左手に目をやると、ヒナギクのそんな声が聞こえた。
 アイマスクの下から、真っ赤な顔でこちらを睨む彼女の声が。

「はは……わかりました。お姫様」
「お姫様じゃなくて、ヒナギク」
「はいはい」

 その姿が余りにも可愛くて、思わず笑ってしまった。
 到着するまでずっと、ということは、僕の左手が解放されるのはしばらく後のことになりそうだ。

「お休み、ハヤテ」
「お休みなさい、ヒナギク」

 さて、ヒナギクからは直ぐにでも可愛らしい寝息が聞こえてくるだろうし、僕はそれまで何をしようか。
 いやいや、やることなんて決まっている。

 我ながらアホらしい自問自答。

「―――練習に決まってるよな」

 少しでも早く、ヒナギクの要望を叶えられるように。
 まずは彼女の名前を、恥ずかしがらずに呼び捨て出来るようにするところから始めよう。


 左手の温もりを存分に感じながら、僕の練習は始まるのだった。





 …




「―――というお話だったんだけど」

 我ながら恥ずかしい話をしたものだ、と思いながら、僕は大した山もオチもない話を終えた。
 結局ヒナギクに対して完全に言葉使いが変わるまで、一年くらい掛かったんだっけ……。
 苦労しただろうなぁ、ヒナギク。

「どうだった?」
「うん、やっぱりパパは鈍感なんだってわかったよ!」

 アイカに感想を聞くと、間髪入れずにそんな答えが返ってきて、ガクッとする。

「は、はは……そう、かな?」
「というか付き合って一年以上も経ってるのに、彼女のことを『さん』付けしてるのが信じられない」
「……随分言うじゃないか」
「言うよー。だってママの娘なんだもん」

 娘から十年前のことを説教される父親というのは、ひょっとしたら昔よりももっと情けないのかもしれない。

「でも、ヒナギクだって僕のことを『君』付けで呼んでたんだからさ、お相子じゃない?」
「じゃあパパもママも変わり者ってことだね!」
「いやいや」

 一応君の両親なんだけどね、僕とヒナギク。
 なんか、今日のアイカは随分言うなぁ、と思いながらアイカを見てみると、

「ん?」

 アイカがにっこにっこと笑っている。
 こめかみに『#』のオプションをつけて。

「あー……アイカ? 勘違いだったら申し訳ないんだけど」
「……何かな、パパ?」

 恐らく勘違いではないんだろうけど。

「ひょっとして、怒ってる?」
「惚気話聞かされて、怒らない娘がいるか―――っ!」
「ですよね――!」

 がぁーっと捲くし立てられるその光景は、まさに十年前の再現である。
 というか、アイカからのお願いだったんだけどね。

「何よ何よ結局さぁ! 山もオチも惚気だらけじゃん!」
「え? そんな、惚気た覚えはないんだけど……」
「この鈍感っ! 鈍感父親!」
「それって語呂悪くないかな?」
「うるさぁい!」

 何を言っても切れられる。
 なんという理不尽だろう。

「ア、 アイカ、落ち着いて……」

 でもそれも言ったところで、また怒られるのだろうから、言わないで置く。
 アイカは鈍感、と言ったけど、それは間違いだ。

 だって、アイカが怒ってることに気づいたのだから、鈍感ではきっとない。

「あーもぉ、騒がしいわね。何やってるのよ二人とも?」
「あ、ヒナギク……」
「あんた等のせいだ―――っ!」
「きゃっ!? ちょ、ちょっとハヤテ、何したのよ!?」
「いやー……鈍感じゃなくなったらなくなったで、結局こうなるんだなぁと」
「はぁ!?」

 鈍感ではなく、怒りに『敏感』になったのだ、僕は。
 そんなつまらないオチで、このお話を締めようと思う。


「ちょ、ホントに何したのハヤテ!?」
「話をしただけだよ」
「この鈍感っ! 鈍感夫婦っ!」


 ……アイカの怒りのオチが、つかなくなる前に。




End





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