短編

□擬似家族
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「暑いわねえ……」

 ムラサキ荘の自室で、ヒナギクは呟いた。
 季節は7月。
 梅雨の時期に入ったのか、それとも過ぎたのかは分からないが、気温だけは例年通りに上昇しているので、部屋の中は湿気やらなにやらでとても蒸し暑い。

「どうしてこんなに暑いのかしら……」

 ヒナギクの独り言に返す言葉は、夏が近付いているから、としか言いようがないのだが、それを言うものもこの部屋にはいない。
 苛立ちを含んだ言葉だけが、部屋の中で響く。

「あーもう、これじゃあ集中出来ないわ」

 勉強を初めてから小一時間、暑さに耐えながら黙々とペンだけを動かしていたが、我慢も限界に来たようだ。
 ヒナギクはペンを机の上に放り投げると、窓でも開けよう、と椅子から立ち上がる。

「…………」

 窓に目を向けた所で、気づく。

「窓開いてたんだった……」

 少しでも暑さを紛らわせようと、窓を開けてから勉強を始めたのだった。
 窓を開けてこの暑さ。
 今日は風も全く吹かず、全然暑さを紛らわせられていない。

「はあ……」

 ヒナギクはため息を付くと、再び椅子に腰掛けた。
 ペンをまた持つ気は起きない。
 これ以上勉強を続けたところで、内容が頭に入るとは思わなかった。

「……ハヤテ君の所でも行こうかな」
  
 窓を開けても暑さが紛らわせないのなら、誰かと話でもして気を紛らわすしかない。
 誰か、を考えて真っ先に頭に浮かんだ人物の名前を呟いて、ヒナギクは立ち上がる。

「確か今の時間ならいるはず……よね」

 マリアは所用で外出、千桜はナギと秋葉原へ遊びに行くと言っていた。
 小さいお姫様は……よく分からないが。

 つまり今の時間、ムラサキ荘にはヒナギクとハヤテ、ともしかしたらアリスしかいないということだ。
 そこまで思い立って、ヒナギクは気づいた。

「…………」

 これって、ある意味チャンスじゃない?

 好きな人と自分、そしてアリス。
 しかもアリスは会った時、自分を母親、ハヤテを父親と言った。
 つまり、まあ擬似的なものではあるがこれは――――。

「い、一家団欒……!!」

 ちなみに一家団欒とは、家族が和やかに楽しい時間を過ごすことを意味するので、今のヒナギクの言葉は間違いである。
 しかしヒナギクはそんなことにも気づかず、ドアに手を掛けたまま固まっていた。

「ど、どうしようかしら……」

 一度考えてしまうと、中々思考の海から抜け出せないのは悪い癖だ。
 しかしアリスがいなければハヤテと二人きり、アリスがいたところで『夫婦』の文字が頭を過ぎる。
 どうしたものか。

「…………」

 考える。ひたすらに考える。
 この状況から逃げるか。
 それとも乗るか、このビッグウェーブに。
 アリスがいるならば、もしかしたら……もしかしたら、ハヤテと夫婦のようなやりとりが出来るかもしれない。
 想像でしかなかった結婚生活を味わえるかもしれない。

「どうすれば……! どうすれば……!!」

 暑さとは関係のない汗が額に滲む。
 知恵熱でこのまま倒れてしまいそうだ。

「いやいや何を迷っているのよ桂ヒナギク! ここは行くべきよ!」

 知恵熱で倒れるなんてみっともない真似したくないと、ヒナギクは悩むのを止めた。
 今まで散々チャンスをフイにしてきたのだ。
 もう同じことの繰り返しはウンザリだ。

「よし……!」

 いよいよ覚悟を決めて、ヒナギクはドアを開けた。
 目指すはハヤテの部屋。
 汗やら何やらでベタついた身体を引きずって、ヒナギクは歩き出す。

 ハヤテの部屋の前に来ると、大きく深呼吸一つ。

「…………よし」

 いざハヤテの部屋に来ると、やはり緊張してしまう。
 ムラサキ荘の廊下はヒナギクの部屋よりは若干涼しく、部屋にいるよりかは良かったのだが、

「や、やっぱり緊張するわ……」

 引きかけていた汗が再び、額に滲む。
 扉の向こうには恐らくハヤテがいるだろう。
 だが、ハヤテの顔を目にしたとき、何といえばいいのか。

「そもそも私、大した理由がないじゃない……」

 暑さを紛らわすために私とお話ししてください。

 ヒナギクがハヤテの部屋に来た理由はそれだけ。
 特に用事があるわけでもなんでもない。
 ハヤテなら全然気にしないとは思うし、喜んでヒナギクとの談笑にも応じてくれるはずだ。

 だから、別に緊張する必要などない。
 ヒナギクがこうしてハヤテの部屋の前で躊躇っているのは相手が想い人であることもあるのだが、一番の理由は―――。

「……なんか負けた気がするのよね」

 要するに、負けず嫌いの性格が邪魔をしていたのだった。
 時折、一体自分は何と戦って何に負けているのだろう、とヒナギク自身思う。
 素直に会いたかったと言えないだけかもしれないが。

「まあでも、ここまで来ちゃったし……」

 理由はどうであれ、ここまで来て今更やっぱりやめよう、では話にならない。

「……そうよ。どうでも良いような理由で会いに来たって別に良いんじゃない」

 馬鹿正直にならずとも、例えば今日の夕飯を聞いたりとか、そのようなものでも全く問題はない。
 そう考えれば随分と気持ちも楽になった。

 もう大丈夫だ、迷う必要もない。
 ヒナギクはもう一度大きく深呼吸して、ハヤテの部屋へノックをした。

「……あれ?」

 しかし、返事がない。
 もしかしたら留守なのか。いや、それならば出かける前に一言声をかけるはず。
 不思議に思って、もう一度ノックをしてみる。

「…………」

 やはり返ってくるのは、無音。

「えーと……」

 少し迷って、ヒナギクは、

「お、お邪魔しまーす……」

 ノックだってしたのだし、入っても問題は(少ししか)ないはず。
 というわけで、恐る恐るハヤテの部屋へ。

「……あ」

 襖を開けたヒナギクは、眼前の光景に目を丸くした。
 結論から言うと、ハヤテはいた。
 しかし一人ではない。

「アリスちゃん……なるほど」

 そう呟いて、ヒナギクは思わず苦笑した。
 散々躊躇っていた自分が馬鹿らしくなったのだ。

 大して物も置いていないハヤテの部屋。
 その床に横たわって眠っている二人の住人。
 そんな二人の、7月の嫌な湿気すら感じさせないくらいに気持ちの良さそうな表情を見てしまったら。

「これは返事が返ってこないわけだわ」

 もしヒナギクが部屋の様子を知っていれば、ノックなど出来なかっただろう。

「…………なんか、父と娘みたいね」

 幸せそうに昼寝をする二人を見て、ヒナギクが呟く。
 少し丸まって眠るアリスと、そのアリスを囲うような姿勢のハヤテ。
 仲良く昼寝をするその光景はまさに親子の様で、ヒナギクにあることを思わせた。

 それは先ほどまで頭を離れなかったこと。

「……一家団欒」

 家族が和やかに過ごす様。
 アリスは言った、自分が母親で、ハヤテが父親だと。
 その父と娘が一緒に昼寝をしている。
 ならば。

「べ、別に問題はないはずよね」

 この中に母親が混ざってしまっても、何の問題もないだろう。
 むしろそれが自然だ。きっとそうに決まってる。

 これは家族があるべき姿なのであって、何も好きな人と一緒に寝てみたいとか、そんな邪な感情などは全然全くもって皆無だ。

「………………」

 誰に向けたのか分からない言い訳を心の中でしつつ、ヒナギクはいそいそとアリスの横に寝そべった。
 アリスをハヤテとヒナギクで挟む形、俗にいう川の字だ。
 身近にアリスとハヤテの存在を感じて、ますます『家族』の言葉を意識してしまう。

「でもこれはなかなか……いやかなり……その、良いわね」

 病みつきになってしまうくらいにヤバイ。
 一種の麻薬みたいなものに思えてくる。
 そんな幸福感で満たされながら、ヒナギクはぽつり、と呟く。

「これが……家族、なのよね」

 擬似的なものであるとしても。
 自分たちは、家族に見えているのだろうか。
 ちら、とヒナギクはハヤテに目を向けて思う。

「(自分もいつか、この人と本当の家族に――――)」

 そんな、幸福な将来の姿を頭に思い浮かべながら、ヒナギクは目を閉じた。

 ハヤテと話すつもりだったが、今は話すことよりもこの時間を満喫したい。

「おやすみ、アリス、『パパ』」

 誰にも聞こえないくらいに小さな声でそう呟いてからしばらくして、ハヤテの部屋には三人の寝息が聞こえてくるのだった。




 …




 その後。


「な……な……何をしているのだハヤテ――――!!」
「ふぇ!? お、お嬢様どうしました!?」
「あらあら、仲がよろしいことで」
「ヒナ……お前」
「こ、これはその……!!」
「もう……騒がしくてお昼寝も出来ませんわ」


 ――その光景をムラサキ荘全員に目撃され、ちょっとした騒動になったのはまた別の話。




End


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