短編

□上向きの生き方
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「泣きたくなったら空を見ろ。俯くばかりじゃ、人生は楽しめないぞ」

 僕の兄は、悲しいことや辛いことがあると、良くそう言ってくれた。
 僕の手をとって、僕の歩幅に合わせながら歩いて、僕の顔は見ずに、上を向きながら。
 小さかったあの頃は辛いことばかりで、辛いことしかなくて、目線は常に地面に向いていた。
 そんな時にいつも言ってくれたのが、この言葉だ。
 アーたんとの事があった時も、イクサ兄さんはこの言葉をかけてくれた。
 一度だけではなく、何度でも。僕の視線が上を向くまで、何回も。









「ん……」

 窓から入ってくる朝日の眩しさで、僕は目を覚ました。

「夢……だよなぁ」

 今は行方不明であるイクサ兄さんが現れている時点で、夢だとは分かっていた。
 それにしても懐かしい夢を見た。

「俯くばかりじゃ人生は楽しめない、か……」

 何度も何度も聞いたあの言葉は、胸にしっかりと刻み込まれている。
 あの頃とはかなり境遇が違っていたとしても、だ。
 辛いことが重なることもなければ、連日悲しみで涙を流すこともない。
 幸せと言っても良いくらいの日常を謳歌している。

「ん……そろそろ支度しようかな」

 温かい布団で目を覚まし、しっかりとした作りのパジャマを着たまま伸びをする。
 平和な一日の始まりだ。
 辛くなく、悲しくなく、俯くことのない日常の。
 辛くはないけれど、兄の教えの通りに空を見てみる。

 窓から見える今日の空は、雲一つない、快晴だった。



 …



「……という夢を朝見たんですよ」

 イクサ兄さんの夢を見たから、もしかしたら今日はなにかあるんじゃないかと内心で思っていたけれど、全く何も起きなかった。
 お嬢様は学校をサボり、定時に授業は始まり、桂先生は相変わらず駄目人間で、そして学校が終わる。
 いつもより周りに気をつけていただけに、何もなかったことに拍子抜けした。

「ふぅん……良い言葉よね、とても」

 そんなことをヒナギクさんに話したところ、感心したようにヒナギクさんが言った。
 ちなみに僕達がいるのは、生徒会室である。
 今は放課後で、これまたいつものようにヒナギクさんの手伝いへ来ているわけだった。
 もはやヒナギクさんの手伝いが僕のルーチンワークになってきているような気がするけど、気にしない気にしない。

「泣きたくなったら空を見ろ、ね」
「僕が泣いている度に、その言葉を言っていましたよ」
「そうなんだ」
「昔の話ですけどね」

 弱虫だったもので、と、苦笑を添えてヒナギクさんに答える。
 あれから何年も過ぎて、生徒会室で女の子と談笑している僕は、あの頃と変われたのだろうか。
 下を向いて歩く人生を、少しでも上向きに出来ているのだろうか。
 そんな事を思って、独り言のような質問をヒナギクさんにしてみる。

「今の僕を見て、兄はどんな言葉をかけるのでしょうか」
「え?」
「こうしてヒナギクさんと談笑している僕は、ちゃんと上を向きながら生きているのかな、と思いまして」

 僕の言葉に、そうねぇ、とヒナギクさんは思案顔になった。
 こういうことは人に聞くようなことじゃないとは思ったけど、自分ではイマイチ分からない。
 ヒナギクさんは少し考えた後、言う。

「ハヤテ君の小さいころなんて分からないから、何とも答えようがないわね」
「そうですか……」

 やはり、そういうものなのだろう。
 小さいころの僕を知る人物にしてこそ、答えられる質問だったと、内心で反省する。
 出会って日が浅いヒナギクさんに答えてもらうには、難しいものだった。

「でも」

 自分で答えの出せない問題に、すぐ他人に頼ってしまう自分を恨めしく思っていると、ヒナギクさんが口を開いた。
 ヒナギクさんを見れば、優しげな顔でこちらを見ていた。

「少なくともハヤテ君が居てくれれば、私は前を向いて歩ける、かな」
「ヒナギクさん……」
「ハヤテ君が変わったかどうかなんて分からないけれど、私はハヤテ君と出会って、自分の気持ちに向き合えるようになれたわよ?」

 ヒナギクさんの言葉は、すっと頭の中に入ってきた。
 自分の気持ちに向き合えるようになれた。
 僕と出会えて、ヒナギクさんは変われた、と。

「確かにハヤテ君って、二言目にはごめんなさいとか言う性格だと思う。でも、常に俯いてばかりいる人と一緒にいて、前を向こうなんて――少なくとも私は、思わないかな」

 だからハヤテ君は、上を向いていなくても、前を向いていると思うわ。
 僕に向けられる琥珀色の瞳は、そう語っているような気がした。
 ヒナギクさんらしい言葉だと思った。

「……はは」

 上ではなく、前を向いている。
 あの時――俯いてばかりの頃と比べて、90度位は、僕は上を向けるようになったらしい。

 人生を、その位までには、楽しめているらしい。

 そう言ってもらえただけで何だか、胸にかかっていたもやが晴れた気がする。
 なんだ、答えられないと言っておいて、しっかりと答えてくれているじゃないか。


「ありがとうございます、ヒナギクさん。なんだかスッキリしました」
「そう、それなら良かったわ」

 僕が礼を述べると、ヒナギクさんは優しい顔のまま頷いた。

「私は……謝ってばかりいるハヤテ君よりも、そうやってお礼を言っているハヤテ君のほうが好きよ」
「え?」
「スイマセンより、ありがとうの方が何だか前向きな感じがするんだもの」

 好き、と言われて思わずドキッとしたけれど、続いた言葉があまりにもヒナギクさんらしくて、思わず笑ってしまう。

「あ、何笑ってるのよ!」
「いえ……スイマセン」
「ほらもー! また謝ってるし!」
「スイマセン……ヒナギクさんらしくて、つい……」

 言われたことを直ぐに実行できないのは良くない癖だなぁと反省しつつ、でも、肝に銘じて。

「本当にありがとうございます、ヒナギクさん」

 自分なりに気持ちを上向きにしながら、言った。

「……それでいいのよ! もう!」

 ヒナギクさんは若干頬を赤くしながら、再び目線を書類へと戻した。
 僕も同じように、仕事を再開する。

「ほら! 仕事の続きをするわよ!」
「了解です」

 書類に目を通しながら、また、考える。
 上を向いて生きるということ。

 辛い時こそ空を見ろ。
 じゃないと人生楽しくない。

 常に前向きな思考、前向きな生き方をしていた兄。

 その兄と自分を比べても、まだまだ僕は及ばない。
 まだまだ兄の言葉通りに出来そうにない。
 でも。

(……とりあえず、前を向いて生きてみるよ、兄さん)

 僕と出会って、変われたと言ってくれた人がいるから。
 前向きの人生を歩んでいると言ってくれた人がいるから。

「――頑張ってみる」
「? 何が?」
「いえ、何でも」

 ヒナギクさんに笑顔で言葉を返し、ふと、窓を見る。
 そして気づいた。


(……これは)


 視線の先には、今朝と変わらない、雲ひとつない青空。
 違うのは、僕の心境だけだ。
 でも、その心境が……心持ちが、少しだけ上を向いているだけで――嬉しい時に見上げる青空というものが、何とも綺麗だということに。

 こんな景色なら何時までも見ていたい。
 心からそう思う。
 だから――


「こらハヤテ君! サボらないの!」



 ――空を見ることにかまけていた僕に、ヒナギクさんからのお説教が飛んできたのも、ご愛嬌ということにしよう。

 上を向いて人生を歩むのなら、このくらいの心持ちのほうがいいと思うから。
 そうだろ、イクサ兄さん。




End



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