あやさきけ2

□梅雨入り前のある日
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「あー蒸し蒸しするー……」

 五月も下旬に入り、湿度の高い気候に変わってきた。
 クーラーをつけたいが、時期的にはまだ早い。
 節電も呼びかけられており、そうそう電気もムダには出来ない。
 そんな葛藤に苛まれながら、綾崎家のリビングでうんざりしたような声を挙げているのはご存知、綾崎アイカ嬢だ。

「クーラーつけたいー」

 リビングのソファからだらしなく足を下げながら、己の欲望を口にするアイカ。
 しかしクーラーのリモコンは手元にはない。

「クーラー……リモコン……」

 別にクーラーのリモコンを取りに行くのが面倒なのではない。
 クーラーのリモコン自体が、この場にはないのだ。
 もしかしたら、クーラーがつけれるかも、そんな一縷の望みを抱いて、アイカはリモコン所持者に目を向ける。

「ママー……」
「ダメよ」

 所持者……綾崎ヒナギクは、アイカの視線に見向きもせずに即答した。

「まだクーラーの時期でもないでしょ」
「うー……だって暑いんだもん」
「ダメったらダメ」

 綾崎家の家計を担うヒナギクは、そうそう簡単にクーラーを許さない。
 電気代などの心配はないのだが、ヒナギクはなるべく規則正しい生活をアイカにしてほしい。
 そんな想いもあって、例え愛娘のお願いだろうと簡単にOKサインを出すわけにはいかないのだ。

「そんなに暑いなら窓でも開ければいいじゃないの」
「風吹かないじゃん」
「少しはマシになるでしょ」
「なんでママは暑くないんだよお」

 どうしてもクーラーをつけたいアイカの態度に、ヒナギクはため息を吐く。

「(……そんなに涼しくなりたいのなら、お皿洗いでもすればいいのに)」

 アイカと同じリビングにいるヒナギクが涼しそうにしているのは、皿洗いが理由だった。
 水を使って皿を洗っているので、ヒナギクの両手は寒い位に冷えている。
 人間冷たいものに触れていれば、何となく涼しくなるものなのだ。
 しかしそんなことに気づかない(気づく気力がないのかもしれないが)アイカは、まだクーラーに熱い視線を向けていた。

「…………」
「……貴女ねえ」

 最近の子どもは堪えるということを知らない、テレビなどでよく耳にするが、アイカを見ているとその意味がよく分かる。

「私たちが子供の頃は、多少暑くても薄着するなりして我慢していたのよ?」
「それは昔の話でしょー?」
「む」

 そして最近のアイカは、少し生意気になった。
 小学五年生にもなれば色々と大人びた考え方や行動をするようになるものばかりと思っていたのだが、あくまでそれはヒナギクの願望に過ぎなかったようだ。
 今のように暑ければ二言目にはクーラー、ハヤテへの態度は相変わらず(誘惑的)。
 寧ろ歳を重ねるごとに、人間的に少しダメになっているような気がしなくもないのだ。

「……ナギの影響を受け過ぎたのかしら?」

 成長していくにつれて、アイカが自分やハヤテではなく、ナギに似てきているようにヒナギクは感じていた。
 三馬鹿トリオや雪路は珠にしか会うことはないが、ナギにはいつでも会えるし、小さい頃から面倒を見てもらってもいた。
 だからアイカがナギの影響を受けるのも全く不思議ではない。
 たまにアイカを見ていると、昔のナギの姿が重なることも一度や二度ではない。
 アイカとナギには、似ている部分が多すぎる。

「む。何よママその目はー」
「何でもないわよ」

 子どもが成長するのは、親としては普通に嬉しいし、幸せなことだ。
 だからアイカの今のような態度も、子どもがちょっと背伸びしていると思えば微笑ましい。
 しかし、ヒナギクとしてはそんなアイカにどう対応すればいいか、考え倦ねていた。

「……どうしようかしら……」

 これがナギならば適当にあしらって終わり、でもいいのだが、相手は他でもない自分の娘だ。
 娘には規則正しい生活を送ってほしい。でも、娘の意志も尊重するべきではないのか。
 しかしそれではただただアイカが我儘になっていくのではないか。
 一度深く考え始めたら止まらない、思考の連鎖がヒナギクを苛める。

「ママ〜くうらあああ」
「ちょっと待って今考えているから!」

 普段は冷静なヒナギクも、多少は暑さにやられていたらしい。
 決断を急かすようなアイカの言葉にも、過剰に反応してしまう。

「……えーと」

 電気代はあまり問題ない。
 節電のことも……まあ、時間を考えて使えば大丈夫だろう。
 それにほら……アイカの言うとおり、暑くないと言えば嘘になるくらいには蒸し暑いのだし……。

 ちら、とヒナギクはアイカを見る。
 アイカの姿勢は変わらない。
 だが、それは暑くて苦しくて、一ミリたりとも動けないからなのではないか。
 よく見れば顔も赤いし……なんだか苦しそうだ。
 うん、そうだ。
 きっと娘は、暑くて苦しくて仕方ないに違いない。

 親として、そんな娘の姿は見ていられない。
 娘の体調よりも、子供の躾を優先する親がどこにいるというのだ。

「ママー」

 もはや何度目か分からない娘の懇願を受けてヒナギクがとった行動は――、


「……し、仕様がないわね……少しだけよ」


 ――言うまでもなく、娘のためにクーラーをつけることだった。


「具合が悪くなったらいけないから、少しだけよ?」
「やっほぉ! 流石はママだ!!」
「ちょ、調子に乗るんじゃありません!!」


 短い電子音の後に流れ始めた冷気を受けて、アイカは飛び上がって喜ぶ。
 先程の様子からは考えられない喜び様だ。

「……ふう」

 そんな娘の様子に、ヒナギクは安堵の息をつく。
 やはり親として、ある程度の妥協はしなければならない。
 なんでもかんでも躾だ教育だと、子供の要望を我儘として享受しないのは、間違いなのだ。

「それだけでも分かったことは大きな収穫、かな」

 アイカを十年近く育ててきてはいるものの、自分とハヤテはまだ手探りで子育てをしていると言っても過言ではない。
 ましてや自分たちはアイカの年頃、親からどんなことをしてもらったのか、体験していないに等しいのだから。

「あ〜涼しい〜」
「あまり身体を冷やしすぎないようにしなさいよ」

 まあそんな問題も、家族三人で進んでいけば簡単に乗り越えられるだろう。

 そんな確信に近いものを感じながら、ヒナギクも娘のように、肌に当たる冷気に身を任せるのだった。






「…………なんか綺麗に纏めてるけど、早い話ヒナギクもクーラー点けたかったんだろ? 暑いから」
「そ、そんなことはないわよ!」




End
 

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