あやさきけ2

□親不知
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「ん?」

 変哲もない朝。
 何時も通りに起きて、ヒナギクの美味しい朝食を腹に納めて、エチケットとして歯を磨いていた時のことだ。

「なんだこれ?」

 右の奥歯の更に奥――本来ならば存在しないところに、違和感を覚えた。
 気持ちが悪くて、ブラシをその部位に当てる。

 ――ゴシッ

 すると、確かにブラシは己の仕事をするべくして、その部分を『磨いた』。

「あちゃー……」

 もしかして、と思っていたが、どうやらそうらしい。
 ブラシを洗って、口を漱いだ後、苦笑交じりに僕は言った。

「親知らず、生えちゃったか」





『親不知』



 歯磨きを終えた僕は、その事をヒナギクに伝えた。
 
「え? 親知らず?」

 キッチンで皿を洗っていたヒナギクがその手を一旦止めて、僕を見る。

「生えたの?」
「うん、そうみたい」
「ちょっと見せて」

 ヒナギクは布巾で水のついた手を拭うと、「ほら口開けて」と言ってきた。

「どこ?」
「右上の奥」

 あー、と大きく開けた口の中をヒナギクが見る。
 妻とはいえ、口の中をまじまじと見られるのは中々恥ずかしい。

「あー……確かに生えてるわね。痛む?」
「いや全然」

 親知らずを細い指で突かれながら(くすぐったい)、僕は答える。
 ちょっと口の中に違和感を感じる位で、痛みといったものは今のところない。

「そう……」
「どうしようか。抜いたほうが良いんだっけ? 親知らずって」
「そうねぇ……生えない人には生えないって言うけれど、ハヤテは生えてるわけだしね……」

 その話は聞いたことがある。
 親知らずは人によっては一生生えない場合もあるが、生えた場合、虫歯や炎症の原因となる。
 親知らずと奥歯の間に出来た小さな溝に粕が溜まり、その小さな溝には歯ブラシでも磨くことは難しい。
 取り除かれなかった溝の粕の部分から虫歯や炎症が起こるとも言われているそうだ。

「そうだね。このまま放置、っていうわけにもいかないから、抜こうか」
「そうしましょうか」

 僕自身一応口内にも気を使って歯磨きをマメにしてはいたが、こればかりは仕方ない。
 親知らずを抜く意思をヒナギクに伝えると、

「じゃあ歯医者に電話ね。予約って出来たかしら……ハヤテ、あまり親知らず弄らないようにね」

 そう言って電話帳を調べ始めた。

「弄らないでって……子供じゃないんだから」

 子供に言いつけをするみたいに言われて思わず苦笑するが、自分のために動いてくれるヒナギクを見るのは、嬉しかった。



 …



「綾崎ハヤテさーん」
「はい」

 数時間後。
 僕は近くの歯医者にきていた。
 ヒナギクが電話で予約をしてくれたらしいが、当日に見てもらえるのは幸いだ。
 歯医者は以外にも診療を受ける人が多くて、予約をするにも一ヶ月後、ということもある。

 勧められた椅子に腰掛け、先生に大まかな事情を説明する。
 事情を大体に伝えると、

「分かりました。それでは口の中を見せてもらえますか?」
「はい」
「椅子倒しますねー」

 腰掛けていた椅子の背もたれが下がり、眼前をライトが照らす。

「じゃあ口を開けてください」
「はい」
「痛かったら左手を挙げてくださいね」

 言われるままに口を開き、先生が親知らずの辺りを突いたりする。
 痛みはないが、くすぐったい。
 それに、やはり口内を他人に見られるというのは恥ずかしい。

「はい、口を閉じてください」

 一分ほど経って、口内を見終えた先生が話しかけてくる。

「確かに親知らずが生えてますね。今のところは炎症などは見られませんが」
「そうですか……やっぱり抜いたほうが良いですかね?」

 炎症などは見られない、ということに安心しつつ、僕は尋ねた。
 今のところは、ということはこの先炎症を起こすかもしれないということだろう。

「そうですね。このまま伸びてしまっても『噛み合う』歯がありませんので、抜いても良いかもしれません」
「じゃあお願いします」

 経過を見ながら抜くよりも、今のうちに抜けるのなら抜いてしまいたい。

「わかりました。それでは麻酔を打つための薬を塗りますので」
「はい」



 そんなわけで、親知らずは抜かれることになったのだった。





 …





 結論から言おう。
 親知らずは抜かれた。

「お疲れ様でした。明日消毒しますので、明日も来てくださいね」
「はい。ありがとうございました」

 受付のお姉さんに笑顔で見送られながら、僕は右頬をさすった。

「うーん……気持ち悪さが倍増したな」

 あの後麻酔を打って、ぐっぐと歯を引き抜かれたわけなのだが、親知らずとはいえ今まで歯があった場所に歯がないというのは落ち着かない。
 抜かれた部分に挟まれた止血用ガーゼの存在も、かなり際立っている。

「あ、おかえり」
「ただいま」

 なるべくそのガーゼを動かさないよう家に帰ると、ヒナギクが駆け寄ってきた。
 歯は閉じたまま唇を動かすので何とも話しづらいことだ。

「その様子じゃ抜いてきたのね」
「うん。とりあえずあまりガツガツご飯食べるなだって」
「そりゃそうね」

 これが抗生物質と痛み止め、と渡された薬をヒナギクに差し出す。

「朝昼晩の食後に一錠ずつ、ね。分かったわ」

 忘れないようにしなくちゃ、とそれらをキッチンの引き出しにしまって、

「じゃあ今日のご飯は簡単に食べれるものにしましょうか」
「お願いします」
「ふふっ。了解」

 じゃあ取り敢えず昼食準備するわね、と冷蔵庫を調べ始めた。

「手伝おうか?」
「大丈夫よ。それよりハヤテは少し休んだほうがいいわよ? そろそろ麻酔が切れ始めるから」

 そういえば、麻酔が切れたら少し痛むかもしれないと言っていたな。
 ヒナギクの言うとおり、仮に痛みが来たとしても寝ていれば感じる痛みも小さいかもしれない。

「そう? じゃあごめん、少し横にならせてもらうね」
「お大事に」

 そのヒナギクの優しい笑顔に見送られながら僕は寝室へ向かう。

「親知らず……か」

 向かう途中に、思う。
 手を沿える位置は、少し前まで親知らずがあった場所。
 気持ち悪くて抜いたというのに、抜いたことによって更に気持ち悪くなる。
 しかし。

「でもまぁ、ヒナギクに心配されるのは嬉しいし……」

 歯を抜いて、ヒナギクは色々と心配してくれるし、手厚くしてくれている。

「――まぁ、たまには良いのかもな、こういうのも」

 妻の優しさを何時も以上に感じての一言だった。

 我ながら馬鹿なことを考えていると思う。
 口内は気持ち悪さが残っているが、自分の考えも相当だ。
 しかし、それらも麻酔のせいで頭が鈍っているからだと言えば、言い訳にもなる。


「……痛みが来たら、ヒナギクにキスでもしてもらって和らげてもらおうかな」


 そんな、本当にどうしようもない事を考えながら、僕は寝室へと入っていったのだった。


 僕がヒナギクにキスしてもらったかどうかは、皆さんの想像にお任せすることにする。





End





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