book3

□風邪引き
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「あー……」

 暦も4月に入り、春一番が吹く今日この頃。
 体温計に表示される数値を見て、桂ヒナギクは重く呟いた。

 体温計が示す体温は、38度。
 どうやら風邪を引いてしまったらしい。

「通りで体が怠いわけよね……」

 誰に言うわけでもなく、言葉を漏らす。
 この所忙しい日が続いていて、生活リズムに若干のズレが生じていたのは理解していた。
 ここにきて、それが体に障ったようだ。

「あーあ、我ながら不覚よねー……」

 本日が休日で助かった。
 新学期早々から風邪で休むなんてことは、生徒会長の自分のプライドが許さない。
 なんとしても平日までに直す必要がある。

「よし、取り敢えず薬飲んで寝よう」

 風邪で怠い体を引きずって、ヒナギクは取り敢えず自室を出た。







 ムラサキ荘は現在7人の住人がいるが、殆どの住人が出かけているようだった。
 いつもは喧騒で賑やかなムラサキ荘も、今は随分と静かである。

「皆はお出かけかしら……」

 薬を片手に静かな部屋内を見渡す。
 今朝皆で食事をしたテーブルは、今は綺麗に片付けられている。
 部屋も掃除が行き届いており、埃一つない。
 大方マリアとハヤテが掃除をしたのだろう。

「本当、痒いところにも手が届いてるというか……というか、薬飲まないと」

 薬を飲んでさっさと寝なければならないのに、関係のない所に目が行ってしまう。
 風邪を引いているからだろうか、人肌が恋しいのかもしれない。
 共同スペースに居ればそのうち人が来るかも、と心のどこかで思ってしまっているのである。

「…………」

 薬を飲んでそのまま待ってみるが、人が来る様子は見られない。

「……寝よ」

 気怠さと寂しさを感じながら、ヒナギクは部屋へ戻った。








「寝れない」

 自室に戻りベッドへ潜ったヒナギクではあったが、生憎睡魔は襲ってこない。
 眠らなければいけないのに、妙に頭が冴えている。
 さっさと寝れば良いものを、時間に比例して感じる寂しさも大きくなってきていた。

「……寒い」

 ベッドの中は体温で温かいはずなのだが、それでも肌寒さを感じているのは風邪の影響だろう。
 体を抱きしめるように丸め、早く寝ようと目を瞑る。

 目を開けたら風邪が治っていれば良いのに、そう思った時である。


 ――――コンコン。


 部屋の扉が、遠慮がちにノックされた。

「あ、はい……」

 突然のノックに若干驚きながら、小さな声で返事をする。

「あの、ヒナギクさん……ハヤテですけど……」

 声の主はハヤテだった。

「あ、どうぞ……」
「失礼します」

 人恋しさを感じていた所に好きな人の登場である。
 風邪以外の理由で、体温が上がる。

「あ、やっぱり熱があったんですね」

 ベッドで丸くなるヒナギクを見たハヤテの第一声が、それだった。

「え……?」

 ヒナギクがハヤテの方へ目を向けると、彼は呆れ顔を浮かべていた。
 その手にはビニール袋。
 中には飲み物やら何やらが入っている様だ。

「今朝顔を合わせた時、ヒナギクさんが少し怠そうでしたので、もしかしたら風邪かな、と」
「気づいてたの……?」
「ヒナギクさんが口に出さなかったので、気のせいかなとは思ったんですが……」

 それでも気になって、色々と買ってきたらしい。
 ハヤテが留守だった理由はそういうことだった。

「全く、具合が悪いなら言ってくださいよ」
「だって……」
「だってじゃないですよ。風邪を引いたのなら無理をせずに頼ってください。そのための執事なんですし」

 表情は困ったものではあるが、言葉には少しばかり怒気が含まれているような気がした。
 ああ、彼は本当に心配してくれているんだ。
 そう感じて、ヒナギクは素直に謝罪する。

「その、ゴメン、なさい」
「分かればよろしい」

 ハヤテはやれやれ、とため息をつくと、ヒナギクの傍まで寄ってきた。

「取り敢えず水分をとって、ゆっくり休んでください」
「うん……」
「薬は?」
「飲んだ」
「わかりました。じゃあおでこ出してください。冷えピタ貼りますから」
「ん」

 ハヤテの言われた通りに前髪を上げると、おでこにひんやりとした物が貼られた。

「あ……気持ちいい」
「これで少しは楽になると思います」
「うん……色々とゴメンね」
「いいえ。こういう時くらい頼ってください。取り敢えず僕はおかゆ作ってきますので」

 それではお大事に、とハヤテが立ち上がり、部屋を出ようとする。

「あ……」

 その手を、ヒナギクは掴んでいた。

「ヒナギクさん?」
「あの……」

 自分でも何をしているのだろう、と思う。
 しかし一度触れてしまった人肌を、手放すことは今の自分には難しかった。
 風邪で気が弱くなっているせいだ。きっとそうに違いない。
 もし相手がナギだったとしても、きっと同じ行動を起こしていただろう間違いない。
 別に相手が好きな人だからとか、そんなことはないのだ。

 それにハヤテだって言っていたではないか。
 頼ってくれ、と。
 ならば、彼の言うとおり、頼らせてもらう。

 熱でぽわぽわしている頭で思考し、ヒナギクは小さく、呟くように言葉を発した。

「おかゆとかはいいから…………だからその…………行かないで……」
「ヒナギクさん……」

 弱々しい言葉を聞いて一瞬驚いた顔を浮かべたハヤテであったが、直ぐに笑顔を浮かべて頷いた。

「わかりました。傍にいますので、ゆっくりと休んでください」
「その……手……」

 ちょこん、と手を差し出すと、優しく、しかし力強くその手が握られる。

「手もちゃんと握っていますから、大丈夫ですよ」
「うん……ありがと……」

 手に感じる温もりに安心しながら、ヒナギクは不思議に思った。
 先ほどまであれほど寝付けず、寂しさを感じていたというのに。
 彼が手を握ってくれているだけでそれらが全て解消されてしまうのだから。

「お休み……ハヤテ君」
「ええ、おやすみなさい。ヒナギクさん」

 安心とともに訪れた睡魔に、ヒナギクは身を委ねた。
 大好きな人の温もりをその手と、傍に感じながら。

 風邪というのもまあ悪くないかな、とそう思ってしまう現金な自分に思わず苦笑してしまいながら。

 ヒナギクは静かにゆっくりと目を閉じたのだった。


 春一番が吹き荒れる外とは対照的に、ヒナギクの部屋には穏やかで、それはそれは優しい時間が流れていた。




End



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