book3
□10/12のハヤテの妄想話
1ページ/1ページ
なんの変哲もない日の夜のこと。
勉強も一段落し、勉強を教えてくれていたヒナギクさんと一息ついていた時だった。
淹れたての暖かいコーヒーを飲みながら談笑していると、真剣な面持ちでヒナギクさんが僕に話しかけてきた。
「ハヤテ君、お願いがあるの」
「はい、なんでしょう?」
こんなに真剣なヒナギクさん、久しぶりに見た気がする。
一体なんなのだろうか、と不安に思う。
先ほどまで勉強を見ていてくれたから、僕の勉強についてだろうか。
あまりの出来なさに頭を抱えている……とか。
それとも朝食のメニューに不満がある……とか。
もしかしたら――――このムラサキ荘を出ていく……とか。
やはり男女が一つ屋根の下で寝食を共にするというのはヒナギクさん的には良しとしていなのだろう。
アーたん……いや、アリスちゃんがいるからこそ今ここに居てくれるが、入居する前はそんな事を言っていたし。
そうではなくても、僕の日頃の行動から考えても、ヒナギクさんがここまで真剣な表情を浮かべる原因に心当たりは…………山のようにあるし。
そう考えると、こっちも緊張してきた。
何を言われるのだろうか。
怒られるのだろうか。
いや、怒られるのは別に良い。怒られたのなら、僕自身がどうにかすれば良いだけの話なのだから。
しかし……もし。
もし…・…ムラサキ荘を出る、と言われたら。
僕は何て言えば良いのだろうか。
正直、ヒナギクさんと送るこの生活はとても楽しい。
お嬢様、マリアさんと屋敷で暮らしていた時も楽しい日々だったけれど、ヒナギクさんたちも加えて送る今の生活の方が、より充実しているし、楽しい。
だから、ヒナギクさんの言葉の続きを聞くのが怖い。
一人欠けてしまうだけで、今の生活が大きく変わってしまう、そんな気がしてならない。
「…………」
ごくり、と喉がなる。
決めた。もしヒナギクさんがここを出たいと言った時は……何とか残ってもらえるようにする。
お嬢様のためにも、僕のためにも。
僕に出来ることなら何でもするから、残ってくださいと。
「それで……お願いとは……?」
「…………」
少しの沈黙。
そんな僅かな間だというのに、緊張感が凄い。
さあ、何を言うのだろうか。
出来れば僕の説教で有って欲しい。
そんなことを内心で願いながら、ヒナギクさんの言葉の続きを待つ。
「その……」
「その……?」
形の良い、可愛らしい唇から紡がれた言葉は――――
「――も、揉んでくれない?」
「…………は?」
…………は?
口から出た言葉と心の声がシンクロした瞬間だった。
「え? 揉むって何をですか?」
意味が分からず、問い返す。
ヒナギクさんは恥ずかしいのだろうか、真剣な表情から一転。
顔を赤らめて、目線をこちらに合わせようとはしない。
(揉むって……一体)
取り敢えず、予想していた内容とは大きくかけ離れているようなので安心した。
しかしそうなると、ヒナギクさんの言葉の意味を考える必要がある。
揉む。これはまあ分かる。
マッサージをする時にも使う言葉だし、料理をする時だって使う言葉だ。
しかし見た感じ、料理をしたい様子も見られない。
そもそも料理をしたいと言うだけで、ここまで顔を赤らめるだろうか。
(となると……マッサージ、か)
残された可能性を考える、が。
(……いやいや、それこそ無いだろう)
ヒナギクさんは自他ともに認める健康体。
見たところヒナギクさんの肩が凝っているだとか、腰が痛いだとか、そんな様子も見られない。
ということで「マッサージ」の線もナシだ。
はて? では、ヒナギクさんはどこを揉んで欲しいのだろうか。
沈黙に我慢できなくなったのだろう、ヒナギクさんががばっと顔を上げて、口を開く。
「だ、だから……! 私の……!」
「私の……?」
ふと、その時。
左手を後ろに伸ばし、右手を胸の前に当てて言葉を発しようとしているヒナギクさんを見て、一つの可能性に気づく。
いや、恐ろしい可能性に気づいてしまったと言っても過言でもないだろう。
「ま、まさかヒナギクさん……!」
「…………!」
そうだ、確かにヒナギクさんなら。
ヒナギクさんだからこそ、その可能性を考慮するべきだった。
だが、しかし、それは。
「も、揉むって……」
「そ、そうよ…………ダ、ダメ……かな?」
あまりの恐ろしさで、口が上手く回らない。
何という事だ。ヒナギクさんが僕にお願いしようとしていることは、先ほどまで僕が恐れていた内容と大差ないぞ……!
頬を赤く染めながら、こちらをちら、ちらと伺うヒナギクさん。
その仕草が可愛いことこの上無いが、そりゃあ頼もうとしている内容が内容だ。
恥ずかしくて頬も染まる。
「ハヤテ、君……?」
「う…………」
唯でさえ可愛いその表情に上目遣いも追加されて、益々ヒナギクさんを直視出来ない。
僕はどうすれば良いのだろうか。
考えろ、考えるんだ綾崎ハヤテ。
ヒナギクさんがお願いしていることは、とても恐ろしく、残酷なことだ。
それに答えるにはかなりの英断が求められる。
ベストでは無くとも、ベターな選択肢を選ぶのならば、
『無言でその場を立ち去る』
この一択。
どちらにせよ彼女を傷つける結果となるが、その傷の深さはこちらの方が断然浅いはずだ。
そうだ。それがこの状況で求められる最善の選択。
(だけど……)
だがヒナギクさんには今まで勉強を見てもらっていたし、それ以外の恩だって数えきれない程にある。
彼女のお願いに一言すら答えない、というのは、恩を仇で返すことになる。
そんなことを、出来る訳がなかった。
どんな結果になろうとも、言葉で伝えるのが筋というものだ。
だから――――!
ごくり、と覚悟と共に唾を飲み込むと、ヒナギクさんの右手をそっと手にとり、言う。
「……ヒナギクさん」
「ハ、ハヤテ君!?」
きっとこの答えは、ヒナギクさんを傷つける。
分かってる。その償いは必ずするつもりだ。
だから、今までの恩返しの意味も込めて、正直に、心からの返事をしようじゃないか。
右手を握られて(何故か)慌てふためくヒナギクさんの目をしっかりと見る。
上目遣いがどうとか、可愛いからどうとか、そんな事を気にしている状態ではない。
誠心誠意、答えるのだ。彼女の願い事に。
目を見て、大きく息を吸って、僕は告げる――――。
「――――――ヒナギクさんの胸は、揉んでも大きくならないと思いますよ」
「―――――――――」
――――僕が言葉を発して、それから。
――――僕がヒナギクさんから「肩を揉んで欲しかった」という正しい意味を伝えられたのは。
「ハヤテ君の…………バカあああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
――――白桜によって全身を強打された挙句、そのまま身体にフルスイングされた後、部屋の窓を突き破ってから、そのまま地面に、まるで漫画のように突き刺さった後だった。
ちなみに「僕は貧乳なヒナギクさんが大好きです」と伝えたら、あっさりと許して貰えた。
全くもって女の子というのは不思議な生き物だなあ。
End
back