book3
□夏と仕事と恋愛事情
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「はあ……今日も学校かあ」
「生徒会長は大変ですね」
蝉の声がけたたましく響く八月。
桂ヒナギクは、通いなれた通学路の上で、深い深い溜息を吐いた。
その傍らで苦笑を浮かべてヒナギクに慰めの言葉をかけているのは、ご存知借金執事こと綾崎ハヤテ。
白皇学院が夏休みに入って数日経つが、その数日間、毎日ヒナギクは登校している。
正直夏休みを潰してまで生徒がやらなければならない仕事があるというのは、もはや学校側に問題があるのではないか、とヒナギクは思う。
「大変、っていうならハヤテ君こそ」
思う一方で、ヒナギクはハヤテに視線を向ける。
自分の隣を歩くハヤテも、この数日間学校に通いっぱなしだった。
しかもその理由が、生徒会の仕事――ヒナギクの仕事を手伝うため。
生徒会役員ですらないにもかかわらず。
「手伝ってくれるのは嬉しいし、物凄く助かるのだけど……仕事はいいの?」
突然だが、桂ヒナギクはこの綾崎ハヤテに恋をしている。
好きな相手が自分のために仕事を手伝ってくれるのは嬉しい。しかし一方で、生徒会役員ではない一般生徒に、それも好きな人に休みを潰してまで自分の仕事を手伝ってもらっているのは、申し訳ない気持ちになる。
ハヤテは本来三千院ナギの執事であり、執事には夏休みも何も関係ない。
そのあたりを踏まえての言葉だったのだが、ハヤテは問題ない、と言って笑う。
「館の仕事はマリアさんがして下さる様ですし、お嬢様も千桜さんが面倒を見てくれていますから」
「ナギの相手よりこっちの仕事の方が楽だと思うのだけど……」
「まあ人には向き不向きがありますから。千春さんとお嬢様はああ見えてかなり気が合うみたいですし」
「そういうものなのかな……?」
「そういうものなんです」
まあハヤテと千桜が、その役割を交換していると思えば自分の罪悪感への言い訳になる。
ハヤテが千桜の生徒会役員としての執務をする代わりに、千桜がハヤテの仕事を引き受ける。
両者はそれで納得しているようなのだし、自分がこれ以上一人で考えるのも変か。
ハル子、ハヤテどちらがいても仕事的には大助かりなので問題はないのだから。
ということで、この話題はこのあたりで区切ることにする。
ハヤテがわざわざ自分の時間を割いて手伝ってくれるのだ。
なるべく早く、仕事を終わらせたほうが良いだろう。
ヒナギクとしては出来るだけ長い時間、共に居たいところではあるが。
(ま……それは我儘よね)
同じ家に住んでいるだけ、彼に好意を寄せている他の女の子よりも恵まれているのだから、出来れば"二人きりになりたい”なんていうのは、贅沢というものだろう。
少しでもそんなことを思ってしまった自分に呆れつつ、ヒナギクは歩める足を少しだけ早めた。
「あれ? どうしたんですか、急に早足なんて」
「ちょっとね」
今までもだが、好きな人と一緒にいると色々と考えてしまうのだ。
(これから仕事をするんだから、余計なことは考えない!)
次々と浮かんでくるものを早歩きの最中に振り払いながら、内心で強く思う。
そうでもしなければ、仕事に身など入りそうもなかったからだ。
…
(まあ……こうなることは分かってたわよ)
それから少し経って、時間的にはお昼時。
生徒会長の机に片頬を乗せるヒナギクの表情は険しかった。
やや釣り上がった目線の先には、書類の山、山、山。
この休み中に終わらせなければならない仕事である。
「ヒナギクさん、どこか具合でも悪いんですか?」
ハヤテが心配そうな表情でヒナギクを伺うが、大丈夫、と言って手で制す。
ハヤテが何を言いたいのかなど、ヒナギクが一番良く分かっていた。
何ていったって自分の事なのだから。
「分かってるわ……暑いからかな、少しだけ集中力が散漫になっちゃってて……」
この数日間、ヒナギクはハヤテと共にこの仕事を早く終わらせるために登校している。
仕事の量は、書類の山から見て分かるほどに、かなり多い。
一般の生徒ならば、それこそ長い目で計画を立てて少しずつ終わらせていくのが妥当と言える程の量だ。
しかし仕事をしているのは、ハヤテとヒナギクである。
学年トップのデキル女と、仕事をすることに関しては万能過ぎる性能を持つ男のペアである。
こんなに大量の仕事だろうと。
正直、二人ならば直ぐにでも終わらせられる量なのだ。
それがここまで長引いているのは、肝心のヒナギクがこんな調子だからだ。
仕事に身が入らない。
暑いから、なんてのは勿論嘘の言い訳である。
そもそもクーラーが効いている部屋で、どうして暑いから、なんて言い訳が言えるのだろうか。
「ちょっと休憩しましょう。アイスティーでも入れてきます」
ヒナギクにまだ心配そうな目を向けながら、ハヤテが席を立つ。
ハヤテの気配が遠くなるのを感じて、ヒナギクは大きくため息を吐いた。
「はあ…………」
集中出来ない理由は分かっていた。
そんなこと、数日前から。
右手の甲を額に乗せ、椅子に寄りかかりながら、ヒナギクはちら、とハヤテを見る。
原因。
集中力の続かない、原因。
この数日間、ヒナギクを悩ませているのが、ハヤテの存在だった。
別にハヤテの存在が邪魔、とかそういうものではない。
感情的な問題だった。
「どうしろっていうのよ……」
ハヤテは仕事が速いし、しかも正確だ。
正直生徒会に入ってくれないかと思うくらいに有能である。
そんなハヤテが手伝ってくれるというのは、いつも少人数で仕事をするヒナギクにとって、かなり有難い話なのだ。
しかし一方で。
「お待たせしました。はいどうぞ」
「ひゃっ……! あ、ありがと」
水滴のついたグラスを両手で持ちながら、ヒナギクはもう一度ハヤテを見る。
綾崎ハヤテ。
桂ヒナギクの好きな人。
(や、やっぱり緊張する……!)
つまりそういうことなのだ。
好きな人と二人きりの、しかも密室。
恋愛耐性が無いに等しいヒナギクにとって、そのシチュエーションだけでかなりの緊張が生まれてしまう。
好きな相手と仕事が出来る喜びと、だが二人きりだという緊張の板挟みになってしまっていた故の、現状。
要するに、緊張し過ぎて仕事に集中出来てなかったのだった。
解決先は見つからず、結局二つの感情に集中力を奪われながら数日間。
一日にこなした仕事の量など、いつもの半分以下すらいっていない。
手伝ってくれているハヤテに申し訳が立たなくて、俯く。
緊張さえしなければ、こんな仕事など今頃終わっているはずなのに。
「今日はもう切り上げますか……?」
自分を心配するハヤテの言葉が胸に刺さる。
自分がこんな状態になっている原因がハヤテにあるなんて、彼は夢にも思っていないに違いない。
でもそれを言ってしまうと、手伝ってくれているハヤテに恩を仇で返すようなことをしてしまう。
(いや……違う)
心の中で、ヒナギクはそれは違うと自分に待ったをかける。
それではまるで、この状況がハヤテのせいだと言っているようなものではないか。
調子が出ない理由を、その責任をハヤテに押し付けて、言い訳しているだけだ。
好きだろうが嫌いだろうが、元を言えば感情をコントロール出来ない自分が悪い。
ハヤテに好意を抱いているナギや歩は、ハヤテと二人きりだろうがしっかりとバイトでは役割を果たしている。
好きな人と二人きりだから、なんて理由は、仕事が出来ない言い訳にすらならない。
自分勝手。我儘というものだ。
「大丈夫、心配してくれてありがとう」
ヒナギクはハヤテに答えると、アイスティーを口に含んだ。
そう、結局は自分次第なのだ。
二人きりだろうが何だろうが、自分の心の問題。
歩やナギのように自分らしく、好きな人の前で普段通りの仕事をすれば良いだけの話。
アイスティーの冷たさが、ヒナギクを少し落ち着かせた。
落ち着きを少し取り戻し、ふと思う。
(そういえば、前もこんなことあったなあ……)
確かあれは、GWの時だった。
海辺でビーチバレーをして、ハヤテにか弱い自分を見せたいと思って、結局そんなこと出来なくて。
恥ずかしくなって逃げ出した自分をハヤテが追いかけて来てくれて。
(そうよ。あの時だって)
そこで、思い出す。
女の子らしい自分を見せたいけれど見せられない、そんな自分に、ハヤテはなんと言ったか。
『可愛い』と言ってくれたではないか。
女の子らしくなくても、それでも自分は可愛いと。
可愛いのだから、その自覚を持ってくれと。
「……なんだ」
どうして忘れていたのだろうか。
嬉しくて嬉しくて仕方がなかったことなのに。
眼の前にいるこの少年は、ありのままの自分を女の子として見てくれる。
変に緊張する必要なんてなかったのだ。
むしろ、緊張して仕事が出来なかった自分を見せてしまっていたことが一番恥ずかしいことではないか。
好きな人に格好悪いところを見せて、挙句の果てに心配までさせてしまって。
何とも情けないではないか。
「さて」
ナギが最近、よく口にしていた言葉を思い出す。
「続きをしましょうか」
――もう、何も怖くない。
「え? 大丈夫なんですか? 無理しなくても……」
「大丈夫大丈夫。解決したわ」
今度は自然と笑顔を浮かべることが出来た。
そのまま、眼前に山のようにそびえ立つ書類の一枚へと手を伸ばす。
いつ終わるのかと思っていたこの書類の山も、今なら直ぐにでも終わらせられる気がする。
「さあて……ここからが本番なんだから」
…
先ほどとは違うヒナギクの様子に、ハヤテは安堵の息を漏らす。
(良かった、いつものヒナギクさんに戻ったみたいだ)
ここ数日、ヒナギクが全然仕事が出来ていなかったことはハヤテも分かっていた。
だが、仕事が出来ていなかったのは何も、ヒナギクだけではない。
ハヤテだってこの数日間、普段通りの仕事が出来ていなかったのだから。
仕事をしようにも、気が散って集中出来ない。
ペンをとっても、手が止まる。
手の代わりに動いていたのは、双眼だ。
ヒナギクが、書類の山が全然崩れていないと思うのも当然だった。
実際、殆ど崩れていなかったのだから。
ハヤテの安堵が安堵したのには、二つの意味がある。
一つはヒナギクがいつも通りに戻ったこと。
もう一つは、ようやく仕事に手がつくこと。
(本当……いつ終わるのかと思っていたけれど……)
ちら、と横目でヒナギクを見ながら、ハヤテは思う。
ヒナギクは先程とは比べ物にならないくらいの速さで書類を片付けていた。
一枚一枚正確に。
その姿はずっと自分が見ていた、白皇学院生徒会長桂ヒナギクだった。
(……この様子だと、早く終わりそうだな)
本当に大丈夫のようだと確認出来たところで、ハヤテも書類に手を伸ばす。
こうなってしまえば、ヒナギクに自分も仕事を出来ていなかったことがバレるのも時間の問題だろう。
ヒナギクのことだ、もしバレたりでもしたら、その理由を聞いてくるはずだ。
そうなる前に、何としても。
一枚でも多く、仕事を終わらせる。
(ヒナギクさんが……好きな人が心配で集中出来なかった、なんて言い訳にならないよなあ。というか言えるわけないだろ!)
八月の生徒会室には、ここ数日では聞くことのなかったペンを走らせる音が二つ。
一つはどこか吹っ切れたような、もう一つはどこか慌てたような。
蝉の鳴き声に紛れながら、混じりながら、旋律のように聴こえてくる。
「ハヤテ君、そっちの書類頂戴」
「はい、どうぞ」
「ありがと」
完全無欠な生徒会長と借金執事。
この二人が山のような仕事を終わらせたのは、この日の夕方のことだった。
End
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