連載小説

□お兄さんとわたし
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 目が合った男性が、ぺこりと会釈をした。誰だったかなと記憶を辿ってみれば、店によく来るお客さんだった。先週も先々週も私服だったのに、今日はスーツ姿。どこにでもいるお兄さんのような印象を受けたが、服装ひとつで変わるものだ。お兄さんは真顔なんだろうけど、目尻が下がっているせいか笑っているように見える。わたしの目が悪いからそう見えたのかもしれない。
 名前も年齢も、血液型も足のサイズも、好きな食べ物も嫌いな食べ物も、勿論性癖も。とにかく何も知らないけど顔見知りという、所謂「客」と「店員」の間柄のお兄さんとわたし。
 お兄さんは、セールの本を五冊持って、真っ直ぐわたしがいるレジまでやってきた。
「どーもス」とお兄さん。
「どーもす」わたしも真似をして言う。
「今日はやっていかないんですか?」
 レジに金額を打ち込みながら、斜め前に見えるクレーンゲームを指差す。店の中に設置されている何台かのクレーンゲーム機。お兄さんは先週、見事商品をゲットしていた。
「ああ、今日はとれないですよ。ほら、ああいうゲームって……」
 にやりと笑ったお兄さん。ああ、ゲーム機の裏側を何か知っているのね。
「夢は大きく持ちましょうよ」
「去年発売されたゲーム機が欲しいんですよねぇ」
「頑張ってください。挑戦お待ちしております」
 目を細めてあははと笑うお兄さんの顔がきれいだ。
「じゃあまた来ます」
 商品を受け取り、笑顔を崩さないまま軽く手を上げ、挨拶をしてから帰って行くお兄さんの背中を見たら、ずきりと胸が痛んだ。次はいつ来るだろうか。わたしの出勤日に来てくれるだろうか。名前を聞いてみてもいいだろうか。ただの店員であるわたしに、そんな権利はないのだろうか。
 いくらになります、いくらお預かりします、いくらのお返しです。接客業で基本の台詞を一言も発しなかったので、同じ遅番のスタッフが不思議そうに首を傾げる。
「常連さん」
 言いながら、閉まる自動ドアを見つめた。この時わたしはすでに、名前も知らないあのお兄さんに、恋をしていたのだ。
 お兄さんが店に来る時間帯はいつも夜の十時前後。それは主に遅番勤務のわたしが、出勤時にお兄さんの姿を確認した日だけの統計だから、もしかしたら朝や昼も来ているのかもしれない。わたしは朝や昼に出勤することはないから確認できないし、そういうつもりもない。だから、もしかしたら今夜はお兄さんが来店するんじゃないかと、自動ドアが開く度そちらに視線を向けて、お客さんの姿を確認する。
 でも入って来るのは、土曜にも関わらず働いていたらしいサラリーマン風の男性や、家族団欒を終えたであろうジャージ姿のおじさん、寝起きのような顔をしたすっぴんのお姉さんばかり。今日は来ないみたいだ。
 そりゃあわたしが出勤の日限定で店にやって来るわけではないし、期待して待っているのは無駄な気がする。いくらわたしがある決意をしていたとしても、だ。
 次にお兄さんが来店したら名前を聞く。とりあえずそこから始めてみようと、数日間散々悩んで決意した。
 でも十一時が近付いてもお兄さんの姿は見えないし、どきどきはもうやめよう。残った作業を終わらせ、閉店準備に取りかからなくては。
そう思っていたとき自動ドアが開いて、反射的にいらっしゃいませを言った。瞬間、心臓が跳ねた。お兄さんだった。
 左耳に携帯電話をあて、誰かとしゃべりながら、商品棚を見て回る。
 今日もスーツ姿で、首に下げたネックストラップにはネームプレートがついていた。仕事帰りか、それとも休憩時間にふらりとやって来たか。
 心臓がばくんばくんと煩い。いよいよだ。今日もわたしがいるレジに来てくれたら、話しかける。名前を聞く。そう思っていた、のに……。
 穏やかな曲が流れるだけの静かな店内に、電話で話すお兄さんの声が響いた。その声は、今までわたしが聞いていたものとは全く違う。わたしが聞いていたのは所詮他人向け、余所行きの声だったと、すぐに理解した。優しい声だった。甘い声でもあった。恐らくそれは恋人に向けた声なのだろうと、結論付けるのは簡単だった。
「じゃあ明日な、遅れんなよ?」
 そう言って電話を切ったお兄さんは、文庫本を一冊持って、わたしがいるレジにやってくる。
 もはや名前なんて、聞けるはずがなかった。
「どーもス」
 お兄さんはいつもの挨拶をしたけれど、わたしは「いらっしゃいませ、お預かりします」と店員としての言葉しか返せなかった。
 名前すら聞けないなんて。あれだけ悩んで決意したのに、それが無駄になってしまうなんて。
 お兄さんと彼女がいつからの仲なのかは知らないけれど、もう少し早く彼を意識していれば、わたしにもチャンスがあったのかな、なんて。名前すら聞けず、スタートラインに立つことすら叶わなかったわたしが、何を考えても無意味だけれど。わたしの心にあった確かな恋心のせいで、後悔せずにはいられない。






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