連載小説

□店長とお出かけ
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 それは突然のお誘いだった。
「今度うちの嫁と朝の市場に行くんだけど、崎田さんも行かない?」
「え?」
「武田くんにも声かけた。で、もう一人誘いたいって言ったら、崎田さんはどうせ暇だろうって」
「それ、武田さんの意見ですか?」
「うん」
「とりあえず武田さんのメタボ腹を殴っておきますね」
「あはは、そうだよな、失礼だよな」
「失礼ですよ。わたしだってデートや合コンに行きます」
「え、崎田さん恋人いたの?」
「いません、この話題やめましょう」
「まあ予定があってもなくても、俺は崎田さんを誘うつもりだったけどね」
 相変わらず罪な人。もしかしたら可能性があるのでは? といつも思わせる。本当は可能性なんてないのに。
 このお誘いも、行きたくはない。何が楽しくて好きな相手とその奥さんと出かけなきゃならないのだ。ふたりの姿を見て、辛い想いをするだけだ。
 でも店長はわたしを誘ってくれた。何人もいるスタッフの中から、わたしを。好きな相手からのお誘いを、断りたくはなかった。
だからわたしは、辛い想いをしに行く。


 夜明け前。わたしたちは店の駐車場に集まった。昼番勤務で九時過ぎに退勤して、二十分かけて家に帰る。お風呂に入って仮眠をとり、軽く化粧をし、また二十分かけて店に戻る。そして今日はこの後遅番勤務が待っている。ただでさえ不規則なシフトなのにこの不規則な予定。いつまで身体がもつだろうか。
 寝ぼけ眼で挨拶すると「疲れてるなあ」と店長がわたしの髪を掻き混ぜた。せっかく梳かした髪が爆発したけれど、それを直すこともできないくらい眠い。
「もしかして寝起き?」
「寝起きです……」
「よく運転して来れたねえ」
「運転中は目が覚めてたんですが……」
「今日仕事休んでいいよ?」
「や、はい、いえ、大丈夫です」
 遊びに行った結果仕事を休むなんて、そんなことあってはならない。
「ほら、祐介、崎田さんにちょっかい出すのやめなさい」
 店長を止めに入った奥さんは、深夜でも変わらず美人だった。寒くないように着込んだ服のコーディネートも完璧。ふわふわした髪は、今日は後ろでひとつに束ねていた。
「ごめんね崎田さん、うちの人からかってばかりで」
「いえ、はい、大丈夫です」
「コーム持ってるけど使う?」
「あ、いえ、手櫛で大丈……」
 大丈夫です、と言いかけて固まった。バッグを探った奥さんの手が街灯に照らされ、よく見えたからだ。長い爪はピンク色で、花が描かれている。細くて長い指によく似合う。
「爪、綺麗ですね」
 思わず呟いた。奥さんは照れくさそうな顔をして「この間ネイルサロンでね」と笑った。
 前に店長が、わたしの爪を見たがっていたのを思い出した。その頃にやったものだろうか。
 なんにせよ、わたしには似合わないものだから羨ましい。この人は、わたしにないものを何でも持っている。容姿も、センスも、愛する人も……。

 市場は夜明け前とは思えないくらい賑わっていた。獲れたての魚貝類が所狭しと並べられている。実家からだとここまで三十分もかからないのに初めて来た。こういう所があるということも知らなかった。店長の車の後部座席では武田さんの肩にもたれかかってうとうとしていたというのに一瞬で目が覚め、武田さんとふたりで感嘆の声をあげた。
 到着してすぐ、店長は奥さんに腕を引かれてカニを探しに行ったから、わたしは武田さんとふたりきり。とりあえず入口から順番に見て回ることにした。
「そういえば千葉さんがどこかにいるらしいよ」
 立派なマグロを覗き込みながら武田さんが言う。
「千葉さんて、絵里子さんですか?」
「そう、実家が魚屋さんなんだって」
「へえ、知らなかった。じゃあ店長は絵里子さんに市場のこと聞いたんですかね」
「そうらしいよ。朝番のとき新鮮な魚が食べたいってもらしたら、紹介してもらったらしい」
「満喫してますねえ。県民のわたしよりこっちに詳しくなってるかも」
「同感。オレ市場初めて来たし」
「わたしもですよ」
 顔を上げると、通路の先に店長と奥さんが見えた。楽しそうにカニを選んでいる。どこからどう見てもお似合いの夫婦。例えば今奥さんが立っている場所に、わたしが立っていたらどうだろう。想像してみたけれど、似合わな過ぎてすぐやめた。
「お似合いだよね」
 隣で武田さんが言った。
「ですね」
 わたしもすぐに同調する。
「崎田さんは? 良い人いないの?」
 そして武田さんは、悪意も含みも何もなく、そんな質問をした。
「いないですよ。どうせ暇です」
「ごめんて。もう何回も謝ったでしょー」
「すみません、気にしてませんよ」
 気にはしていない。この恋心を捨て去らない限り、いつまで経ってもわたしは暇人。そりゃあいつかは恋人ができるかもしれない。でも店長ほど話が合う相手とは出会える気がしない。だからいくつも妥協して、そこそこの相手と、そこそこの結婚生活を送るのだろう。それも想像してみたけれど、上手くできなくてすぐやめた。
「崎田さんの性格なら、すぐに良い人できそうだけどね」
「だといいですけど……」
 苦笑すると、視界の隅に見覚えのある人物が映った。絵里子さんだ。絵里子さんもわたしたちに気付いて、驚いた顔で手を上げる。だから雑談も想像もやめにして、ふたりで人ごみを掻き分けた。
 もうひとつ、ピアスをあけたくなった。






 

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