中編小説

□ゆれる
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 二十六年前、飲み会で知り合った女性と交際二ヶ月でできちゃった結婚をした男は、子どもが産まれるのとほぼ同時に離婚を決めた。女性の両親は、再婚のネックになるという理由で子どもを引き取らず、親権は男のものになった。しかし男は、一年もたたないうちに別の女性との再婚を決めた。親権者は男なのだから、子どもを連れて行かなければならないのに、あろうことか男は、自分の両親にこんなことを言った。
「新婚生活に赤ん坊がいたら相手も大変だから、とりあえず頼むわ」
 そうして子どもを実家に預け、自分だけさっさと籍を抜いて婿養子に入ってしまった。以来二十四年間、数年に一度遊びに来るものの、ちっとも引き取りに来なかった。
 そうして男の実家で育ったのがわたしだ。
 だから父親と言っても、わたしはこの男に何の思い入れも、親子らしいことをした記憶も、一切なかった。
 作るだけ作っておいて、自分たちの都合で離婚して、自分たちの都合で手離したくせに。再婚相手と別居することになって寂しいからと言って、手の平返してメール攻撃を仕掛けてくるなんて。そんなのただの我が儘だ。
 我慢するのは、いつもわたし。
 高齢の祖父母に迷惑かけないよう、運動会の家族参加競技はいつも先生とペアだった。授業参観も学芸会も卒業式も、大変だから来なくていいよって言っていた。昭和初期生まれで田舎育ちの祖父母が、クリスマスや誕生日のパーティーを開いてくれるわけがないし、バスや電車もない地域だから友だちと街に遊びに行くこともなかった。運転免許を取って働くようになると、深夜に帰宅するという日が多々できてしまい、静かに帰って来てもいつも起こしてしまう。そのうち祖母が帰宅時間に合わせて起き出し、夜食を作り始めてしまったから、家を出ることにした。一人暮らしなんて寂しいし、するつもりはなかったのに。祖父母に迷惑をかけたくないという気持ちが勝った。
 そうやって、わたしはずっと色々なことを我慢して来たのに。なぜこの男は我慢できないのだ。


「きいちゃん、コーヒーおかわりしていいからね」
 男のへらへらした顔に無性に腹が立った。
「あの、もう朝から電話とかメールとかやめてください。夜中に帰って来て昼まで寝ていることも多いので」
「朝帰りなんてやるねえ。きいちゃんも彼氏を作る年なのか」
「いえ、そういうのではなく、仕事です」
 言うと、男はしまったという顔をしたあと、眉を下げる。その顔を直視したくなかったから、すぐに俯いて知らんぷりした。
「ごめんね、きいちゃん」
「そのきいちゃんっていうのも。もう二十五歳なので」
「ごめん、昔呼んでたのが抜けなくて」
「数えるほどしか会ったことがないのに?」
「だよね、ごめん……」
 さっきから謝ってばかりだ。
 もうここには来たくないと思った。男のせいというわけではない。冷たい言葉しかかけることができない自分に、うんざりしたからだ。仕事中はなんでも卒なくこなして、スタッフたちからは「雑貨屋店員の鑑」だなんて言われているわたしが。聞いて呆れる。これ以上、嫌な気分になりたくはない。
「すみません、やっぱりもう帰ります」
 結局口を付けなかったどんぶりを畳の上に置いて立ち上がると、男は急に挙動不審になって、ごめんねを繰り返した。そんなに何度も謝らないでほしい。わたしがそうさせているみたいじゃないか。
「きいちゃん、あのさ」
 男を睨んだのは、またあだ名で呼んだからだ。
「こんなこと言える立場じゃないんだけど……」
 良かったら、また一緒に暮らせないかな。
 そんな言葉が静かな部屋に響き、途端にわたしの顔がかあっと熱くなった。
 本当に、そんなこと言える立場じゃない。一緒に暮らしていたのなんて、赤ん坊のとき、ほんの数ヶ月程度じゃないか。いらなくなってすぐに捨てたくせに。どの口が、また、と言うのだ。
「それは、親子をやり直したいという意味ですか?」
「うん、そう。無理、かな?」
「無理だと思います。今更本当に親子になれると、本気で思っているんですか?」
 男は力無くはははと笑い、謝罪の言葉を口にする。もう何度目の謝罪か分からない。
 その表情を見て、申し訳ない気持ちになったのは確か。
 わたしは男に謝らせるために、冷たい言葉を吐くためにここに来たのか? 待ちに待った休日に。昼過ぎまで寝てやると意気込んでいたのに。結局睡眠時間を削ってまで。父親らしいことをひとつもしたことがないこの男に、一体何を求めていたというのだ。
「本当にごめんね。良かったらまた遊びに来てよ、咲希ちゃん」
 散々な再会だったはずなのに、目を細め、笑みを浮かべる男の顔が、誰かに似ていた。
 どんなに冷たい言葉を吐いても、他人のように接しても、ほんの数えるほどしか会ったことがなくても。この情けない男は父親で、わたしは娘なのだ。睡眠時間を削り、嫌々ながらも来てしまったのは、つまりそういうことなのだ。今更親子になれなくても、男とわたしは紛れもなく親子だった。
 パンプスのストラップが上手く付けられなくて、自分の手が震えていることに気付いた。背後に立つ男に見られないよう背中を丸めて、ついでに脛についた砂を払った。男が今どんな顔でいるかは、簡単に想像できた。
 わたしは深く、息を吐く。
「この部屋」
「え?」
「少し片付けたほうがいいと思います。およそ二十代の女を招く部屋とは思えない」
 男がはっと息を飲む。
「片付けるよ。だから、またおいで」
 返事をしないまま部屋を出て、そのまま車までダッシュした。
 もう何も話せない。顔も見たくない。でも男の表情は手に取るように分かってしまう。あの目、あの顔。目を細めて笑う顔。それが、驚く程わたしと似ていたからだ。血が、表情が、わたしを形作る全てが、あの男が父親だと言っている。
 車のドアを乱暴に閉め、息を切らしながら煙草に火をつけた。
 車内禁煙を貫いてきたのに窓を開けなかったのは、うわーんと大声で泣いたからだ。



(了)


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