中編小説
□ゆれる
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きいちゃん、来てくれたんだ。
八年ぶりに聞く懐かしい声と共にドアが開いて、わたしは思わず、うげ、と。カエルが潰れたような声を出した。
「狭い所だけど入ってよ、先週引っ越したんだ」
玄関に入るどころか、一歩後退りしてしまったのは完全に無意識だ。
ぼさぼさ頭に無精髭、薄汚れたトレーナーを後ろ前に着ている男が、へらへら笑いながら、段ボールだらけで薄暗い木造アパートの一室に入れと言う。
この男は今朝、七通のメールと一件の着信をわたしに寄越した。
久しぶりだね。仕事辞めちゃったよ。別居することになったんだ。寂しいよ。どうすればいいかな。会いたいよ、と続いて、七通目には新居と思われるアパートの住所が書いてあった。無視していたら、ついに電話が鳴ったのだった。
待ちに待った週に一度の休日に、こんな所に来てやる筋合いはなかった。今日はゆっくり昼過ぎまで寝て、また明日からの連勤に備えるつもりだった。
けれど、なぜかわたしはここにいる。
「遠慮しないで、自分の家だと思っていいよ」
男は興奮しているのか、お茶飲むでしょ、コーヒーでいいかな、好きな場所に座ってよ、と早口でまくし立てていく。
好きな場所に座るもなにも、選択肢はほぼないじゃないか。六畳ほどの部屋を囲むように、天井まで段ボールが積み上げられ、ぽっかり空いた中央には布団が敷かれている。わずかなスペースにはテーブル代わりと思われる段ボールとボックスティッシュ。段ボールの隙間から畳を這うように伸びた充電器。なぜか枕元にマヨネーズ。隙間を縫うように散らばったよれよれの衣類と、黄ばんだ古い漫画本。そこに突入していくか、このまま玄関先に腰を下ろすか。選択肢はそれだけだ。でもさすがに玄関に座るのは失礼だろうし、行くしかないのか。男に聞こえないよう、ため息をついた。
男はというと、狭い台所に積まれた段ボールを漁って、どうやらカップを探しているらしい。
「あの、すぐ帰りますのでお構いなく」
「え、すぐ帰るの?」
「昼から仕事なので」
嘘だ。嘘を吐いてでも、早く帰りたかった。
「そっか、仕事か。きいちゃんも頑張ってるんだね。今ハタチだっけか」
ようやくカップが見つかったのか、さびれたヤカンを卓上コンロにかけながら、はははと笑う。
「いえ、今年二十五です」
「ええ、もう二十五歳なの? だよねえ、ハタチにしては老けてるなって思ったんだよ」
失礼すぎる。舌打ちをしそうになったけれど、ぐっと堪えた。
「いつの間にか成人しちゃってたんだね。全然知らなかったよ、ごめんね」
前回会ったのは、わたしが十七歳の時だった。あれから八年。わたしに興味がないのなら、このまま連絡してこなくても良かったのに。わたしに興味がないのなら、興味がないままで良かったのに。
「聞かせてほしいな、最近のきいちゃんのこと」
玄関に立ったままだったわたしの肩をぽんとたたいて、男はどんぶりを持たせてくる。中身は茶色い液体だった。
「コーヒーに砂糖とミルクは?」
どんぶりからは確かにコーヒーの香りがするが、砂糖やミルクどころじゃない。器のせいなのか、全く飲む気にならないからだ。たかが器でここまで食欲が失せてしまうのかとびっくりした。
誘導されて、ようやく狭い部屋に入ったが、座る場所はやはり布団の上。布団の端に控えめに正座すると、脛にじゃりという感触。砂っぽい。座ったまま少し後退ると、畳の上も砂っぽかった。スカートを穿いて来たことを後悔した。嬉しそうに笑う男の顔を見たらげんなりした。ずずずと音を立ててどんぶりコーヒーを啜る姿を見ればため息も出た。
こんな男。
こんな父親。
八年ぶりに会う父親が、こんな情けない姿になっているなんて。
なぜこんな所に来てしまったのか。この行動の意味を、わたしは理解できない。ゆっくりだらだら休日を過ごして明日に備えたほうが正しい判断だったはずだ。来てやる義理もない。この男は、二十四年前わたしを捨てたのだから。