中編小説

□うましか(鹿編)
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 試合当日、目が覚めるともう昼過ぎだった。試合開始は一時だと言っていたからすでに遅刻確定。支度をして出る頃には大遅刻になってしまうだろう。もう母校になんて行かずにのんびり休日を満喫しようかとも思ったけれど、もしかしたら彼女も来るかもしれない。昨日の段階で、集まるメンバーの中に彼女の名前はなかった。そりゃあ共通の友人なんていないし、僕の友人が今回の発起人なんだとしたら、声すらかかっていないだろう。だからと言って僕が今日行かずに、後になって友人から彼女も来ていたと聞かされるのは嫌だ。慌ててベッドから抜け出した。

 学校の駐車場には停められないと言われていたから、申し訳ないと思いつつも近くのコンビニに停めさせてもらおうと景色を流していたら、高校から目と鼻の先にある町民体育館の門に「高校野球観戦・臨時駐車場」の貼り紙を見つけた。素直にそこに停めて車から降りると、むわっとした空気のせいで一瞬で額に汗が滲んだ。
 ゆるやかだけど長い坂を上っていく。学校の敷地を囲む芝生の斜面やフェンス、体育館や校舎を見上げるのは初めてのことだった。学生時代は自転車通学だったから、立ち漕ぎの最中にわざわざ見上げるわけもない。こんなことでもなきゃ、きっと一生見ることがなかった風景だろう。
 それにしても暑い。深く息を吐いて額の汗を拭う。営業職で普段から歩き回っているとはいえ、八年ぶりのこの坂は正直足にくる。どうして坂の頂上にある高校を選んでしまったのか、後悔したことは一度や二度ではない。夏は炎天下、冬は雪の中、雨の日は合羽を着て自転車を漕ぐのは地獄だったが、今じゃこれも良い思い出かもしれない。
 ふと見ると、校門の前に女の人が立っていた。あの人も野球観戦に来たんだろうけど、この時間じゃもう大遅刻だ。遅刻ついでに思い出を振り返っているのだろうか。仲間がいた。思わずにやける頬を撫でながら横断歩道を渡る、と。
 僕の足音に気付いた女性が振り返り、そして呟くように「こ、ばやしくん」と僕の名前を呼んだのだった。
 驚いて改めて女性の顔を見る。可愛い顔をした人だった。目がぱっちりしていて、黒く長い髪を後ろでひとつにまとめている。そして尋常じゃないくらい汗だくだ。年は僕と同じくらいだろうが、誰だろう。
 数秒間を置くと、頭の中に一人の女の子の顔が浮かんだ。それは今日会いたかった人の顔だった。
「どちらさまですか?」
 予想が外れたら申し訳ないからそう答えてみると、女性は肩を落として気まずそうな顔をした。伏せた目と俯いた顔の感じは見覚えがある。当時親しくもないただのクラスメイトだった僕が、よく見ていた角度だった。この人は、今日僕が会いたかった人だと確信した。
「うそうそ、憶えてるよ、笹井さん」
 ふっと笑ってそう言っても、彼女は気まずそうな顔のまま。でも僕をしっかりと見上げてくれた。僕は嬉しさを隠すように彼女の隣に立って腕時計に目をやる。
「試合?」
「うん、そう、甲子園」
「もうとっくに始まってるよ」
「小林くんこそ」
「寝坊して」
「わたしもだよ」
「笹井さんが遅刻するイメージないけど」
「ゆうべ遅くて」
「デート?」
「まさか。仕事」
 まさか。学生の頃ほとんど話したことがない笹井さんと、こんなに普通に会話ができるなんて。まあ僕も彼女も二十代半ば。まだ十代だったあの頃とは違う。それだけ大人になったということだろう。
 それにしても彼女の汗が凄い。聞けば駅の裏にある駐車場に停めろと連絡があり、そこから歩いて来たらしい。結構な距離だ。町民体育館の貼り紙を見つけなければコンビニの駐車場に停めようとしていた僕とは大違いだ。
 そんな真面目で素直な彼女が無性に可愛く思えて、くつくつ笑いながら手の甲で彼女の額の汗を拭ってやり、行こうかと促した。




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